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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年2月24日日曜礼拝「信仰の祖アブラハムは、祝福の基たるべく召し出された」創世記11章27節〜12章3節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-02-24 16:15:55 (898 ヒット)
2013年礼拝説教

20132月24日 日曜拝説教

「信仰の祖アブラハムは、祝福の基たるべく召し出された」 

創世記11章27節〜12章3節(旧約聖書口語訳12p)
 
 
はじめに
 
 先週の末、日本人なら決して無関心でいられない外交上の重要な出来事が三つありました。
一つは日本国総理大臣の訪米とワシントンにおける米国大統領との会談、二つ目は島根県松江市で行われた、県主催による「竹島の日」記念式典の挙行、そして三つ目が首相の特使として訪露した元首相とロシア大統領との北方領土をめぐる会談でした。
 
 竹島は日本が独立を回復する直前のまだ弱り果てている時に、火事場泥棒のように掠め取られた領土ですが、北方領土の歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)の四島の方は、信頼関係を結んでいた筈の友人が倒産寸前の会社に突然、狂暴な山賊のように乗り込んできて、そのまま居座って、会社を乗っ取ってしまったというところでしょうか。
 
 日本の領土であった南樺太、そして千島列島の北千島と中千島は、確かに一九五一年のサンフランシスコ講和条約によって日本が放棄することが決まりましたが、だからといってソ連の領土とされたわけではありませんでしたし、南千島の四島は、ソ連がそして現在はロシア国が不法に強奪して、実効支配を続けている、日本固有の領土です。
 
 ところで「知床旅情」の元歌とされている「オホーツクの舟歌」という歌をご存知でしょうか。実は私は知らなかったのですが、先日、偶然、映画「男はつらいよ」で寅さんの妹のさくらを演じた、女優の倍賞千恵子が歌っているステージをユーチューブで視聴して、北方領土問題がかかえる苦悩が一気に実感できたように思えました。是非、一度視聴してみてください。
 
こちらを聴きますと、あの極左思想の女性歌手が歌う「知床旅情」が、センチメンタルなだけで、軽薄で軟弱で、聴くに堪えないものに感じてしまいます。
オーケストラと混声合唱団をバックにしての倍賞千恵子の歌声、歌唱そしてパフォーマンスによる四分五十五秒のステージは、北方領土を故郷としていた漁民の痛み、哀しみ、そして祈りを見事に表現していて、たましいを揺さぶられます。
 
 国後(くなしり)に関して、「知床旅情」は「飲んで騒いで丘に登れば、遥かクナシリに白夜が明ける」と呑気に歌いますが、「オホーツクの舟歌」の方では「霞むクナシリわが故郷(ふるさと)、いつの日にか詣(もう)でむ 御親(みおや)の墓に 眠れ 静かに」と、国後島に眠る親を偲ぶのです。
 
 国後などへの元島民とその家族による墓参が可能となったのは昭和三十九年からで、森繁久弥がこの歌を作った昭和三十五年当時は、「いつの日にか詣でむ」と、対岸の知床岬から願うしかなかったのです。
倍賞千恵子の歌を聴きますと、何としても四島の返還を、と思わせられます。
 
 日本にとって幸いなのは、昨年の八月、南朝鮮の大統領が低迷する支持率を上げるために竹島に不法上陸したこと、そして中国が尖閣を脅かし始めたことなどが、結果として日本人に領土問題への意識を目覚めさせたところに、弱腰の政権に替わって強い政権が誕生したことなどが重なって、今年一気に北方領土問題の展望が開けてきたように思えることです。
 
 そして改めて思うのは、人である、ということです。戦後六十八年を経て日本国は人を得たように思われます。
私は個人的に、二〇〇九年の八月末から、大袈裟に言えば神不信に陥っていたように思えます。「神はこの国をお見捨てになられたのか」と。
しかし、神は人知をはるかに超えるお方でした。私は改めて内に懐いた神不信を悔い改めて、神を仰ぎ、神に期待して祈るのです、「神よ、願わくは、神がこの国に指導者として立てた人を、この国の再生のために尊く用いて下さるように」と。
 
 神が事をなされる時、人を立て、人を手足として用います。そしてその人が神の前にも人の前にも謙虚である限り、前途は開かれます。
神はかつて、全世界を祝福するためにひとりの人を選び出しました。それが信仰の祖アブラハムです。 
 
 現時点での世界の人口は七十億人です。では宗教人口はどうかと言いますと、キリスト教が三十一パーセントの二十二億人で、イスラム教が二十二パーセントの十六億人、そしてユダヤ教が二パーセントの千五百万人であって、この三つを合計すると世界総人口の五十五パーセントになるのですが、この五十五パーセントもの人々が信仰の模範として一様に仰いでいる人物がアブラハムなのです。
 
 
1.信仰の祖は、先祖伝来の空疎なる生活から呼び出された
 
 このアブラハムを信仰の祖とするために、神は彼を先祖伝来の空疎な生活の中から呼び出したのでした。
 
アブラハムの出身地は「カルデヤのウル」と考えられています。
 
「テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランは父テラにさきだって、その生まれた地、カルデヤのウルで死んだ」(創世記11章27、28節 旧約聖書口語訳12p)。
 
なお、ここで「アブラム」(27節)とあるのはアブラハムの元々の名前です。
 
ところでアブラハムの出身地の「カルデヤのウル」(28節)は従来、ユーフラテス川の下流域西岸に発達した古代シュメールの都市国家の「ウル」とされてきました。現在のイラク南部です。
しかし、一方では昔から、「カルデヤのウル」はそのメソポタミア南部のウルではなく、「ハラン」の近くの「ウル」、つまりメソポタミア北部の方の「ウル」ではないか、という説があるそうです。
 
この北部の「ウル」は現在のトルコ南東部に位置する「ウルファ(Urfa)」のことであって、フリー百科事典の「ウィキペディア」によりますと、「トルコのムスリム(註 イスラム教徒のこと)の伝承では、『旧約聖書』にある預言者アブラハム(イブラーヒーム)がカナンに向けて出発したウル(カルデヤのウル)とはウルファのことであるとされ、これを記念するモスクも建てられている。アブラハムがカナンに向かう途中で住んだハラン(ハッラーン)が、ウルとカナンを結ぶ直線の上にあることもその証拠とされる」というわけです。
ただし、ご存知のようにウィキペディアは学問上の確実性に関しては引用文献になり得ませんので、信憑性に関しては今ひとつなのですが、このウル北部説に関しては近年、聖書学者も主張し始めているようです。
 
ウル北部説の根拠の一つが、ヨシュア記の「ユフラテの川の向こうに住み」という記述です。
 
「イスラエルの神、主はこう仰せられる、『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテの川の向こうに住み…』」(ヨシュア記24章2節前半 335p)。
 
 従来の説の「ウル」はパレスチナから見れば川のこちら側であって、ハランなどは「ユフラテ川の向こう」になるからです。
 
 もう一つの根拠は、「カルデヤのウル」の「カルデヤ」人が、ハランを含む北部メソポタミアだけでなく、ユフラテ側下流域の南部の方も支配するようになったのは、紀元前一千年以後であるというのです(新聖書大辞典)。
 つまり、アブラハムの時代には、南部のウルは「カルデヤのウル」ではなかったというわけです。
 私も長い間、「カルデヤのウル」はユーフラテス川下流のウルだとばかり思い込んでいたのですが、北部説もありかな、と思い始めています。
 
 ところでアブラハムはどこで神の召しを受けたのかということですが、創世記の十二章を見る限り、メソポタミア北部の「ハラン」のようです。
 
「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。時に主は言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。…アブラムはハランを出たとき七十五歳であった』」(11章31節〜12章1、4節)
 
 でも、カナン、つまり後のパレスチナに住むようになったアブラハムに向かって、神は自らを「あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」と名乗っているのですが、これを見るとアブラハムは「カルデヤのウル」で呼び出されたように見えます。
 
「また主は彼に言われた、『わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です』(創世記15章7節)。 
 
いったい、ハランなのかウルなのかどちらなのか、という問題が出てくるのですが、「カルデヤのウル」がメソポタミア北部のウルだとしますと、ハランとは直線距離で大阪と名古屋くらいの間隔になり、おまけにハランはウルからカナンへ行く途中にあることなどを考えると、そして共通の文化圏でもあることなどから、ウルでもハランでも大した違いはないのではないかと思えます。
 
 大事なことは、アブラハムが神からの召し、すなわち、故郷を離れて、神が示す地に行け、という声を、自らへの呼び出しとして明瞭に聞いたということなのです。
それは今いるところから「出て」(1節)「別れ」(同)「離れ」(同)という離別と、神が示す「地に行きなさい」(同)という未知の世界への出立を内容とするものでした。
それは安穏な現在から危険をはらんだ将来への冒険を意味するものであったかも知れませんが、それは何よりも偶像礼拝の世界からの呼び出しであったようです。
 
「…テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、わたしはあなたがたの先祖アブラハムを、川の向こうから連れ出して…」(ヨシュア記24章2、3節)。
 
 考えて見れば、私たちもまた、ある日ある時、神からの呼び出しを受けて、神なき人生から神を信じる世界へと呼び出されたと言えます。
 
ペテロの手紙の著者はそれを、先祖伝来の空疎な生活から身代金を払ってもらって救い出されたと言います。
 
「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちるものによったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(ペテロ第一の手紙1章18、19節 新約口語訳367p)。
 
 日本固有の文化、伝統そして倫理性は、新渡戸稲造が「武士道」で、そして内村鑑三が「代表的日本人」において指摘しているように、キリスト教国に比べて遜色のないばかりか、むしろ、その質の高さにおいてはるかに優れたレベルにありました。
 
それは日本がキリスト教国でないにも関わらず、たとえば欧米のキリスト教国よりも、そして人口の三分の一がキリスト教信者であることを誇る南朝鮮よりも、遥かに犯罪率が低いことをもって証明することができるのですが、しかしただ一点、「先祖伝来の空疎な生活」(18節)と言わざるを得ないものが日本にありました。それが、天地を創造した唯一の神を知らないという意味においての「先祖伝来の空疎な生活」でした。
 
そして私たちもまた、アブラハムと同様に、「ほかの神々に仕えていた」(ヨシュア記24章2節)という状況から、唯一の真の神を信じる者へと召し出されたのでした。それはまた、栄光への呼び出しでもありました。
 
 
2.信仰の祖は、祝福の基たるべく召し出された
 
しかし、召し出されたのには目的と使命とが付随します。召しとは召命であって、召命とは使「命」を果たすために「召」す、という意味だからです。
アブラハムは第一に、祝福の基たるべく召し出されたのでした。
 
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(12章2節)。
 
 祝福の基となるための道が、アブラハムの子孫を「大いなる国民」とするということでした。
「名を大きく」するということも同じ意味です。ただし、名を大きくしてくれるのは神であって、自分で名乗るものではありません。ですから、国名に「大」などを恥ずかしげもなくつける国というのは、劣等感はあっても実は自信がないのか、それとも神をも畏れぬ国であるかのどちらかです。
その意味では我が国の「大日本帝国」などというかつての呼称も、思いっきり背伸びをした呼称であったと思います。
パウロも「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである」と書いています(コリント人への第二の手紙10章18節)。
 
 問題は、先週の説教でも触れましたが、アブラハムには跡取りがいないということでした。それはアブラハムが高齢であるということだけでなく、妻のサラが不妊であったこととも関係します。
 
「サライは不妊の女で、子どもがなかった」(11章30節 新改訳)。
 
 そのことは当然、神も知っています。知っていながら「あなたを大いなる国民と」(2節)する、「あなたは祝福の基となる」(同)と言ったということは、跡継ぎに関しては神が責任を持つ、という意味なのです。
 
アブラハムも神からの呼びかけを受けた時、「この私が、でしょうか」と困惑をしたかも知れません。しかし信仰の祖は、このような、自分が責任を持つ、という神によって、祝福の基として召し出されたのでした。
 
 私たちも今日、それぞれが祝福の基たるべく、神ならざるものを神としていた「空疎な生活の中から」召し出されている者たちです。
 
ですから、「祝福の基」となるには能力が不足している、才能もない、知恵も知識もない、頭も悪い、信仰も薄いなどと、足りないもの、持っていないものを数えるだけでなく(もちろん、おのれを知ること、特に自らの弱さを自覚していることはとても大切なことです。何しろ、何が困るといって、大海を知らぬ井の中の蛙のような、世間知らずで自信過剰の夜郎自大ほど始末に負えないものはないからです)、弱さを自覚したあとになすべきこととして、神の真実性と全能性とに我が身を委ねることです。
 
そして神の真実性と全能性に自らを委ねることが信仰であるということを、長い時を経て学んでいったのがアブラハムでした。
 
 
3.信仰の祖は、祝福の媒介者たるべく選び出された
 
 そして、信仰の祖アブラハムの子孫に与えられたもう一つの使命が、祝福の媒介者たる立場でした。
 
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(12章3節)。
 
 「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(3節)とは、アブラハムの子孫が祝福の媒介者になること、アブラハムの子孫によって全世界が、すべての民族が神の祝福、恩恵に与かることになる、という意味です。
 
そしてそれこそが、アブラハムの子孫であるイスラエル民族に与えられた最終的な役割であって、そのことを端的に語っている言葉が、エジプトの奴隷の頚木から解き放たれたイスラエルの民がシナイ半島で受けた言葉でした。
 
「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト記19章6節 101p)。
 
 ここにはイスラエルの二つの立場が明記されています。一つは神に対して「聖なる民となる」ということです。
 
「聖なる民となる」とは特別な民、オンリーワンの民となるということであって、具体的には、神を信じるとはどういうことか、礼拝の民とはいかなる民かということが、イスラエルを見れば一目瞭然という、いわば信仰のモデル民族として立つ、それがイスラエルの役割であったのです。
 
 そしてもう一つの立場が「祭司の国」です。祭司とは何か、祭司とは神と罪深き人間との間にあって執り成す者、のことです。
 
つまり祭司の国とは神と他の民族との間にあって、一方では神の御心を、そして神の御言葉を人々に告げ、他方では神なき民のために神に向かって執り成しをするという仲保者、媒介者のことです。
それが「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(3節)という言葉の真の意味でした。
 
 しかし残念なことに、イスラエルは「聖なる民」という選民意識のみを過剰に意識して驕り高ぶる一方、もう一つの「祭司の国」という立場を忘れて、異邦人、異教徒を蔑むようになってしまいました。
 
 そこで失格者となったイスラエル民族に代わって選ばれたのがキリストの教会だったのです。キリストの教会こそ、神の祝福を媒介する者として、最終的に、神によって選び出されたものなのです。
 
そしてその信仰と働きとは信仰の祖であるアブラハムを仰ぐことによって養われ、正しく推進されていくようになるのです。
 
私たちの信仰の祖アブラハムは、祝福の基たるべく、そして祝福の媒介者たるべく、先祖伝来の空疎な生き方から召し出されたのでした。
そしてアブラハムの信仰による子孫であるキリストの教会も、アブラハムの足跡を踏むために召し出された神の民なのです。


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