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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年1月6日二〇一三年第一回日曜礼拝「救世主は見捨てられた者たちに代わって、神に見捨てられた」マルコによる福音書15章33〜41節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-01-06 16:20:00 (1009 ヒット)
2013年礼拝説教

13年1月6日 二〇一三年第一回日曜礼拝説教

「救世主は見捨てられた者たちに代わって、神に見捨てられた

マルコによる福音書15章33〜41節(新約聖書口語訳80p)
 
 
はじめに
 
 皆さまはこの正月をどのように過ごされたでしょうか。私はクリスマスの前に引いた風邪が治りきらぬままに新年を迎えたこともあって、正月の間、人に会うことは出来るだけ控えて、箱根駅伝をチラチラ見ながら年賀状を書いておりました。
 
 新しい年の最初の日曜礼拝です。今年も日曜ごとの礼拝を大事にしたいと思います。礼拝は、牧師だけでは成り立ちません。多くの方々のご協力が必要です。今年もよろしくお願い致します。
 
 ところで新年の挨拶は「おめでとうございます」ですが、ものの本によりますと、「おめでとう」の挨拶は「相手の人間に対して言うのではなく、新たな年に迎えられた年神(としがみ)を讃える言葉としてかわされたもの」(産経新聞取材班「祝祭日の研究(株式会社角川書店発行)」なのだそうです。
 そうであるならば、新年の挨拶は先ず最初に、天地万物の創造者である神にすることが基本であることになります。改めて、父なる神と御子なる主に栄光がありますように。
 
さて、昨年の夏、世界中が仰天するようなニュースがスペインから飛び込んできました。
田舎町の教会のフレスコ画を自称画家の老婦人が、教会からの依頼がないにも関わらず、勝手に修復作業を行い、その結果、修復どころかキリストの顔を原画とは似ても似つかぬ猿顔に変えてしまったという事件でした。
 
 ところがこのニュースが世界に配信されるやいなや、スペイン北東部のアラゴン州の州都であるサラゴサの、ボルハという小さな町の教会、ミゼリコルディア教会には「修復」された絵を一目見ようと、世界中から観光客が押し掛けたため、教会側も拝観料を徴収すると共に、警備員を雇うなどの騒ぎになりました。
 
 この騒ぎのもとになったのは、自称画家のセシリア・ヒメネスという名の老婦人の、善意と無知と自己過信にあると思われます。
 
「フレスコ画」というのは、漆喰を壁に塗って、塗ったその漆喰が乾かないうちに水性絵の具で上から直(じか)に描く、そうすると石灰の層に絵の具が染み込んでいき、漆喰が乾くと表面が透明な皮膜で覆われ、その皮膜が保護膜となる、という仕組みによる画法なのだそうです。 
 
古くなって傷んでいる絵を修復しようとした老婦人の意図は善意そのものです。しかし、教会の承諾を得ていないだけでなく、フレスコ画を修復する専門的知識もないのに「修復」作業を行った無知と、修復する技量が自分にあると思い込んだ自己過信が、この喜劇?を生み出したのでした。
 
フレスコ画の作者はエリアス・ガルシア・マルティネスという画家とのことで、しかもこの絵の題名は「エッケ ホモ(ECCE HOMO)」です。「ECCE(エッケ)」は「見よ」で「HOMO(ホモ)」は「人」、つまりこの言葉はイエスの十字架の道行きの最初のステージであるピラトの裁判において、ピラトが群衆に向かって言った言葉として有名です。
 
「イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、『見よ、この人だ』」(ヨハネによる福音書19章5節)。
 
 原画のキリストはその頭に茨の冠をかぶっているように見えますが、「修復」された顔には茨の冠などはなく、どこから見ても猿、しかも「猿の惑星」に出てくるような猿顔です。これは笑いごとではないのです。
 
 たとい善意からであるにしても、修復と称して原画を別のものに変えてしまうことは原作者を冒する不法行為であることに老婦人は気がつかなければなりませんし、観光客が落とすはした金に目が眩んでこの騒動を歓迎している村人たちには、あなたがたのために十字架にかかってくださった救世主が笑い物にされている事実を何と思っているのかと聞きたくもなるような出来ごとでした。
 
新しい年が明けましたが、ピラトから「エッケ ホモ(見よ、この人だ)」と言われるまでもなく、今年も仰ぎ見るべきお方は、茨の冠をかぶせられて私たちの身代わりに十字架に架かってくださったイエス・キリストです。
 
 私たちは二年かけて、マルコによる福音書からイエスの実像を追い求めてきましたが、今週を含めてあと三回で完了ということになります。
 
そして年明けの第一週である今回が、イエスの生涯のクライマックスとでもいうべき、十字架の場面です。その十字架の場面を、おそれおののきつつ、恰もそこに居るかのような思いで、万感込めて読むことにいたしましょう。
 
 
1.救世主は見捨てられた者に代わって、神に見捨てられた
 
 イエスは神の御子でした。神の御子のイエスは人となってからも、人が犯すような罪は一つも犯しませんでした。
その御子なるイエスが十字架の上で息を引き取る間際、神に向かい、大声で悲痛な叫びをあげたのでした。それは、「神が今、私をお見捨てになった!」という叫びでした。
 
「昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコによる福音書15章33、34節 新約聖書口語訳80p)。
 
 イエスが叫んだ言葉は、詩篇にある言葉でした。
 
「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」(詩篇22篇1節)。
 
 通常、ユダヤ人たちはこの言葉を重々しく暗誦するのですが、イエスはこれを絶叫したのでした。なぜかと言いますと、それが、イエスが実際にその時に感じた感覚、つまり実感であったからでした。
 
 それまでもイエスは私たち人類が経験する悲しみ、痛み、嘆き、怒りのすべてを経験してきていました。
しかし、イエスが経験をしていないことが一つだけありました。それは何かと言いますと、神との交わりの切断、という経験でした。
天において神の子として神と共にいる時は勿論のこと、人として地上に生まれてから十字架に架けられたこの瞬間まで、父なる神の眼差しは常にイエスに注がれており、イエスもまた十字架の上の言語に絶するような苦痛のさ中にあっても、神と共にあることを実感していたのでした。
 
 しかし、この日の午後三時、イエスは父なる神が自分から顔を背けたことを感覚的に知ったのでした。
 
 それだけではありません。イエスは嘗て経験したことのない意識を持つこととなったのではないかと思われます。それは自分が罪深い罪びとであるという強い罪意識でした。
罪を犯したことがないのに罪意識を持つということが有り得るのだろうかと私たちは思うのですが、イエスの場合、そこまで私たち罪びとと同化し、一体化してくれた、とわたしは思うのです。
 
パウロのコリント教会への手紙にある、神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた」(コリント人への第二の手紙5章21節前半)
の「罪を知らないかたを罪とされた」という言い方には、イエスを外形的に罪びとに認定したという意味以上の、それまで罪を犯したことがないので、罪意識を持つことのなかったイエスが、罪を犯した者が感じる罪意識というものを持ったという意味に受け止めた時はじめて、午後三時に至って迸(ほとばし)り出たイエスのあの叫びが、神から見捨てられた者の放つ絶望の声であったこととして正しく理解することができるのではないでしょうか。
 
紀元三〇年四月七日の金曜日の午後の三時、確かに神は人類の罪を、そしてわたしたち個々の罪をすべてイエスに背負わせてイエスを罪びとの代表として罰したのでした。
 
本来ならば赦しがたい罪のため、罪びととして神に見捨てられる筈の私たちを救うために、イエスは代わって神に見捨てられる立場をとってくれた、しかもその時、イエスの意識は深い罪意識、絶望的な認罪感に変わっていた、そしてそれはイエスにとり、未知の領域での立場、未経験の経験であったため、思わず知らず、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶叫となってその口から発せられることとなった、イエスが愛のゆえに人類と一体化したというのは、そういうことだったのではないでしょうか。
 
私たちはこの朝、私のために十字架の苦しみを嘗めただけでなく、文字通りこの私の代わりに神に見捨てられた救い主イエスをもう一度、感謝をもって仰ぎ望みたいと思うのです。
 
そこに例外はありません。対象は真面目な人もそうでない人も、宗教的な人も不敬虔な人もすべて、すべての人です。どんな過去を生きてきた人であっても、このイエスを救世主として仰げば救われるのです。
 
「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」(イザヤ書45章22節 旧約聖書口語訳1009p)。
 
 
2.救世主は自らを犠牲にして、罪の支配の終わりを宣言した
 
 「わが神、わが神」(34節後半)はヘブライ語では「エーリー、エーリー」です。
それで、附近にいた者は愚かにも、イエスが預言者エリヤに救いを求めているのだと思い込み、好奇心を旺盛にして、エリヤが助けに来るかどうかを見ようとしました。
 
「すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、『そら、エリヤを呼んでいる』。ひとりの人が走って行き、海綿に酔いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、『待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう』」(15章35、36節)。
 
 イエスが「エリヤを呼んでいる」(35節)と言った「人々」(同)とは、恐らくは聖書を聞きかじっていて多少の知識を持っていたローマ人でしょう。サンヒドリンの関係者であるならば当然、イエスの叫びが詩篇のものであることは理解していますから。
 
 イエスは救出を求めたわけではありませんでした。イエスは自分を犠牲にすることによってある事に決着をつけようとしたのでした。
それは何かと言いますと、罪を犯した人類を支配している罪と罪の結果である死の支配を終わらせること、そして、信じる者に完全なゆるしと永遠の命の始まりをもたらすことでした。
 その証拠が、イエスが絶命する寸前に叫んだ言葉にありました。
 
「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた」(15章37節)。
 
 イエスが今際(いまわ)の際(きわ)に「声高く」(37節)何を「叫ん」(同)だのかは、マルコによる福音書ではわからないのですが、マルコによる福音書から三十年後に書かれたと思われるヨハネによる福音書の並行記事を見ますと「すべてが終わった」と叫んだようです。
 
「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終わった』と言われ、首をたれて息をひきとられた」(ヨハネによる福音書19章30節 175p)。
 
 「すべてが終わった」という言葉は、諦めや敗北を告げる言葉のように聞こえます。
しかしそうではなく、それどころかそれとは反対の、凱歌(がいか)、勝鬨(かちどき)という勝利を告げる宣言だったのでした。
 
 何が「終わった」のかと言いますと、神が自分の犠牲を受け入れて、アダム以来、人類を苦しめ続けてきた原罪が処分されて、その結果、今この瞬間、人類に対する罪の支配が終わったのだということだったのです。
それでこの言葉を新改訳は「完了した」と訳し、新共同訳は「成し遂げられた」と訳しているのです。
それはイエスの弟子たちですら悟ることの出来なかった神による人類救済の秘義でもありました。
 
干支(えと)に動物が当てはめられているのは後世の後付けですが、今年は巳年、つまりへび年です。蛇と言いますと、エデンの園において人の先祖を罪へと誘った誘惑者として有名です。
誘惑をしたということから、蛇はサタンであった、そして創世記には十字架におけるサタンへの勝利が約束されている、という説があります。
 
創世記に、神がへびに向かって、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3章15節)と語ったとあることから、「へび」のすえであるサタンと女のすであるイエスとの間で闘争があり、サタンは十字架に釘付けすることによってイエスの「かかと」を砕いた、そしてイエスはサタンの「かしら」つまり頭を砕いて致命傷を与えた、これを原福音という、というわけですが、この解釈は後付けの読み込みです。
 
第一にエデンの園における「へび」はあくまでも爬虫類のへびであって、それ以上でもそれ以下でもなく、またそれ以外でもないからです。
 
第二に、十字架刑は両手を横木に釘で打ちつけましたが、足は縄で縛って縦棒の前に突き出ている足台に載せました。足が釘づけされている絵がありますが、あれは中世の画家の想像によるものです。
ですからイエスは「かかと」を砕かれてはいません。想像力が豊かなのは結構ですが、聖書解釈の原則は「読み込むな、読み取れ」であることを確認したいと思います。
 
 しかしイエスは、有り難くもご自身を犠牲とすることによって、私たち人類の罪を償ってくださいました。
 
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコによる福音書10章45節)。
 
 ルカによる並行記事ではなぜか後半部分がすっぽりと抜けているのですが、マルコでは明確に、イエスがこの世にきたわけは「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(45節)であると言い切っています。「あがない」(同)とは一言でいえば償いということです。
イエスは助かろうとするどころか、ご自分の命を代償とすることによって、罪の支配を終わらせ、救いを完成しようとしたのでした。
 ですから、イエスの今際の際の叫び「すべてが終わった」は、完了の宣言であったのでした。
 
新しい年、改めてイエスが払ってくださった犠牲の重さを計算して、イエスを信じイエスに従う決心を新たにしたいと思います。
 
 
3.真の神は独り子を犠牲にしてまで、救いの道を開いてくれた
 
 十字架の犠性は父なる神と子なるキリストによる人類救済のための共同作業でした。
イエスという犠牲がささげられた時、具体的にはイエスは息を引き取られた時、刑場から少し離れたエルサレム神殿の奥の垂れ幕が真っ二つに裂けるという現象が起きました。
 
「このとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15章38節)。
 
 この「上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)「幕」(同)は普通の幕ではありません。この「幕」はエルサレム神殿の奥の聖所と呼ばれる拝殿と、至聖所(しせいじょ)と呼ばれる本殿の間にかかっておりました。
 
 神殿の奥の至聖所にはモーセがシナイの山で神から受けたという、十戒が刻まれた石の板が入った契約の箱が置かれていたそうです。それは、そこに神がおられるということを示すものであって、そこには大祭司が犠牲の血を携えて、年に一度だけ入ることがゆるされるという、厳かで聖なるところでした。
 
その本殿と拝殿とを隔てる垂れ幕、それは厚さが数十センチもあるとのことですが、それがイエスの死と同時に真っ二つに裂けたのでした。それは、聖なる神と罪深い罪びととを隔てていたものが除かれたことを示すしるしだったのです。
 
幕は誰によって裂かれたのでしょうか。それは神ご自身によって、です。
人類の罪の被害者である神自身が、その独り子を犠牲にすることによって人類の罪を処分してくださり、自ら、隔ての幕を裂いて救いの道を開いてくださったのです。
この幕が裂かれたということ、特にそれが下から上にではなく、「上から下」(38節)に裂かれたという事実は、父なる神が子なる神の犠牲を効力あるものとして受け入れてくださったことを証しするものでもありました。
 
 この十字架の場面では、神はイエスを見捨てた非情の神、という印象を受ける人もいないわけではありません。しかしこの時、人の想像を超える葛藤を父なる神もしていたのです。
その父なる神の心情を歌いあげた秀歌が、説教の前に共に歌った岩淵 亮作詞作曲による「父の涙」でしょう。
 
心に迫る父の悲しみ 愛する独り子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう 愛を知らずに今日も過ぎてゆく
十字架から溢れ流れる泉 それは父の涙 
十字架から溢れ流れる泉 それはイェスの愛」
 
 神殿の幕が裂けたという事実の意味を、神殿祭儀を知り抜いていたヘブル人への手紙の著者が、ユダヤ教出身のクリスチャンたちに、感動しながら解説している箇所が十章です。
 
「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所(註 この場合の「聖所」は至聖所の本殿のこと)にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい道をとおって、はいっていくことができる…のである」(ヘブル人への手紙10章19〜21節 353p)。
                 
 独り子を犠牲にしてまでも、私たちのための救いの道を開いてくださった生ける真の神こそ、誉め称えられるべきお方です
 
 
 今日の説教の冒頭、「修復」どころか悲しいまでに破壊されてしまった絵の話しを致しましたが、それでも救いは、原画が茨の冠を被って十字架に磔にされたイエスの姿を描いたものであり、その絵のタイトルが「この人を見よ」を意味する「エッケ ホモ」であることが、多くの人々に伝えられた筈ですので、そのことは僥倖(ぎょうこう)であったと思います。
 
 そこで説教のあとには、久しぶりに讃美歌百二十一番「馬槽(まぶね)の中に」を歌いたいと思います。この歌は讃美歌では珍しく作詞も作曲も日本人によるものです。そこにはイエスの生涯、生き方そして振る舞いが目に見えるかのように表現されています。詞を味わいながらご一緒に歌いましょう。
 
食する暇も打ち忘れて 虐(しいた)げられし人を訪ね
友なき者の友となりて 心 砕きしこの人を見よ
 
すべてのものを与えし末 死のほか何も報いられで 
十字架の上に挙げられつ 敵を赦ししこの人を見よ」
 
この人を見よ この人にぞ こよなき愛は現われたる
この人を見よ この人こそ 人となりたる生ける神なれ
 


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