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2012年礼拝説教
2012年礼拝説教 : 2012年12月2日待降節第一主日礼拝「救世主は自ら進んで有罪となった(上)―ユダヤの法廷で」マルコによる福音書14章43〜49、53〜65節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-12-02 16:47:36 (1105 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年12月2日 待降節第一主日礼拝説教

「救世主は自ら進んで有罪となった(上)―ユダヤの法廷で」

マルコによる福音書14章43〜49、53〜65節(新約口語訳77p)
 
 
はじめに
 
 一九九九年(平成十一年)四月、山口県の光市というところで、二十三歳の主婦と生後十一カ月の乳児が惨殺されるという事件が起こりました。
 
事件から四日後、十八歳と一カ月になる少年が逮捕され、一審の山口地裁、二審の広島高裁は共に無期懲役の判決を下しましたが、最高裁が「年齢は死刑回避の決定的事情までとはいえない」として判決を破棄し、二審の高裁に差し戻されることとなり、これを受けた広島高裁が審理の結果、元少年に死刑を言い渡しました。この判決に対して弁護側の方は即日控訴をしました。事件から九年後のことでした。
そして事件から十三年が経過した今年の二月、最高裁第一小法廷が弁護側の上告を棄却し、死刑判決が確定することになりました。
 
 ところが、この十月の末、弁護団が差し戻し判決に重大な誤りがあるとして、刑罰の軽減を求めるかのような再審請求を広島高裁にしたという報道がありました。
 
再審請求は刑事訴訟法にも規定されている権利であって、被告人の利益となる新たな証拠が発見されたときなどは、再審請求をすることが認められているのですが、本件の場合は弁護団が死刑反対論者で固められていることから、死刑回避のための再審請求であることは明らかです。
 
死刑廃止論は結構ですが、しかし、いわゆる人権派弁護士たちには加害者の人権だけが見えて、被害者や被害者の家族の痛みや人権にはまるで関心がないように見えるのはなぜなのかと思います。
 
また、元少年が起こした事件の残虐さ、拘置所における反省の無さ、差し戻し審における荒唐無稽の供述などを見る時、自己の欲望を充足させるために何の罪もない二つの命を奪いながら、自分だけは何としても生き延びたいという願望でこの死刑囚が足掻いているようにしか見えません。何とも往生際が悪いという印象です。
 
有罪が明らかでありながら死刑を回避したいと(もが)く者がある一方、明らかに無実でありながら自ら進んで有罪宣告を受けようとしたお方がメシヤ・キリストであるイエスでした。
 
今週から教会暦では待降節に入ります。昨年まで待降節の礼拝ではそれまでの説教シリーズを一時中断して、クリスマス関連の説教をするのが通例でしたが、現在、マルコによる福音書の連続講解説教が佳境に入っていることから、今年はマルコによる福音書の連続説教をこのまま続けることに致しました。
 
そこで今週と次週は自ら進んで有罪となったイエスに焦点をあてて、イエスの心情の理解に努めたいと思います。
 
 
1.法を曲げてでも、メシヤを有罪にしようとした神の選民
 
 エルサレムの東、ケデロンの谷の西側のオリブ山を少し上った所にあるゲッセマネの園で、イエスが人類の救いのために死ぬという最終の決断を、まさに孤独の中でした直後、ユダヤの最高議会のサンヒドリンから送られてきた警察が、扇動された群衆と共に、裏切り者のユダに手引されてイエスの逮捕のため、その園へとやってきました。
 
「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒を持って彼についてきた。…人々はイエスに手をかけてつかまえた」(マルコによる福音書14章43、46節 新約聖書口語訳77p)。
 
 メシヤ・キリストとして神から送られたイエスを逮捕したのは、何と神の選民であるユダヤ国家の代表者たちでした。
「祭司長、律法学者、長老たち」(43節)とはユダヤの最高法院サンヒドリンのことです。サンヒドリンがイエスを逮捕した目的は、自分たちにとって都合の悪い存在となっているイエスを除き去ることでした。
 
自分の思い通りに生きたいと思っている人たちにとっては、聖書を正しく解釈し、神の意思をまっすぐに説くイエスは、極めて都合の悪い存在であったのです。そこで邪魔ものであるイエスを何が何でも抹殺するということになったのでした。
 
しかし、イエスを抹殺し、しかも影響力までも取り除くためには合法的な理由が必要です。そこでイエスが律法に従わない罪人であることを示すため、なりふり構わぬ行動に出たのでした。
 
サンヒドリンの議長である大祭司は、イエスを裁判するため、逮捕したその夜に七十人の議員を招集して議会を開きました。
 
「それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた」(14章53節)。
 
しかし、この裁判では違反を承知の違法行為が多く行われました。
 
第一は時間帯の問題でした。イエスの裁判は真夜中に行われたようですが、ユダヤでは、裁判を夜間に開くことは違法なことであったのです。
 
そして、時期が問題でした。裁判が行われたのは除酵祭の真っ最中でした。大きな祭の期間中の裁判もまた、違反でした。
 
さらに、裁判が行われる場所が問題でした。裁判は正式には神殿の庭にある石切りの間という場所で行われるのですが、イエスの裁判は大祭司の官邸で行われました。これも無効です。
 
さらにイエスを有罪にし、しかもその罪状が死に当たることを証明するために偽証人が立てられたのでした。しかし、ユダヤの法廷では証人は二人以上が必要で、その証言は細かいところまで一致していないと採用されませんでした。
大祭司が用意した偽証人はイエスに不利になるような偽りの証言を次々としましたが、証言が細部に及ぶと一致していないことが明らかになりました。何しろ、捏造した証拠ですから当然です。
 
「さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするために、イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証言が合わなかったからである」(14章55、56節)。
 
 「偽証」(56節)とは単に「偽」るということではありません。「偽証の目的は隣人を陥れるために行われるものです。ですからモーセの十戒で厳しく戒められています。
 
「あなたは、隣人について、偽証してはならない」(出エジプト記20章16節 旧約聖書口語訳102p)。
 
 モーセの十戒とは憲法のようなものです。それを、国会と最高裁判所の二つの機能を持つサンヒドリンの議長が破って、偽証人を立てて偽りの証言をさせたというのです。
 
 用意周到に準備した偽証も役に立たなかった、このままでは、折角逮捕したイエスを無罪ということで釈放しなければならない、焦り、そして業(ごう)を煮やした大祭司はついに、最後の手段として、違法な誘導尋問という行動に出ます。大祭司はイエスに向かって直接、「お前は神が遣わしたキリストなのか」と問います。
 
「大祭司は再び聞きただして言った、『あなたはほむべき者の子、キリストであるか』」(14章61節後半)。
 
 実はユダヤの法廷では被告が不利になるような証言に導く尋問もまた、違法だったのです。
 
 私たちはイエスの裁判に、法を曲げてまでも何とかしてイエスを有罪に追い込みたいとするユダヤ議会の執念を見るのですが、それが神の選民を自任して、異教徒を無知蒙昧の輩、神を知らぬ罪びとと蔑むユダヤ民族の指導者たちの振る舞いであったのです。
 
 この大祭司たちの思いと行動に、人間の罪、原罪というものが集約されています。
人間は神を求めます。しかし、人が求める神は正しいことを好む神ではなく、自分の願いを聞き入れてくれる神である場合が多いのです。
ですから、自分にとって都合の悪い神は無視し、無視することができなくなると抹殺します。神を殺せない場合、神を殺す代わりに神のことを極力考えないようにします。
それが現代の神殺しなのです。
 
 
2.その選民の救いのために、自ら進んで有罪となった救世主
 
 目的の為には手段を選ばない、目的遂行のためには法さえも曲げる、それがおのれを神とする者たちの特性でした。
 
 ところで不思議なのは、律法に精通している筈のイエスが、この大祭司の官邸における裁判では、裁判の不当性を少しも訴えていないこと、そして大祭司の違法な誘導尋問に引っ掛かるかのように、それまで一言の弁明もしなかったのに、最後の場面で、口を開いて自分がキリストであると答えたことでした。
 
「イエスは言われた、『わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に坐し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』」(14章62節)。
 
ユダヤの法廷では、被告にも一定の権利が認められていました。その一つが「黙秘の権利」でした。被告には自分に不利な証言はしなくてもよいという権利が保証されていたのです。イエスももちろん、その権利を行使することができました。ですから、もしもこのままイエスが黙秘を貫いたならば、圧倒的な権力を持つサンヒドリンと雖も、イエスを無罪放免せざるを得なかったのです。
 
ところがそれまで何を言われても沈黙を続けていたイエスが口を開いて、「そうだ、あなたがたは私が神のキリストとして、神の権威をもってこの世を統治するのを見ることになる」と、自分に不利になるようなことを、しかも大祭司が泣いて喜ぶようなことを答えてしまったのです。
 
 「しめた」と喜んだのは大祭司でした。これでイエスに死刑を宣告することができるからです。こうしてイエスは議会によって死に当たるものと断罪されたのでした。
 
「すると大祭司はその衣を引き裂いて言った、『どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか』。すると、彼らは皆、イエスを死に当たるものと断定した」(14章63、64節)。
 
 なぜでしょうか。なぜこのような結果になったのでしょうか。実は、イエスは有罪の宣告を受けるためにあえて裁判にかけられたのでした。イエスがもしも無罪となってしまったならば、人類の身代わりとなって死ぬことができなくなります。ですから、イエスは罪など少しもないにも関わらず、自ら進んで有罪となられたのでした。
 
 イエスの裁判から二十数年後、パウロはローマにある教会に対し、それこそが神の愛の現われなのだと、熱情込めて説いております。
 
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ人への手紙5章6〜8節 新改訳)。
 
 一般的にいって、自分とは関係のない「正しい人のために」(6節)「死ぬ」(同)などという人は皆無である、では自分のために犠牲を払ってくれた「情け深い人」が困難の極みにいるならば、その人のために「進んで死ぬ人があるいはいる」(7節)かもしれない、しかし、神を恐れるどころか神に敵対していた「不敬虔な者のために死んでく」(6節)れたことによって、神が愛であることが明らかとなった、というわけです。
 
 イエスはご自分を殺そうとする神の選民の指導者のためにも、そして
選民ならぬ神に背いて来た私たち現代を生きる者たちのためにも、自ら進んで有罪となってくださったのでした。
聖書はそのことが、神が私たちを愛してくれていることの証拠だと言います。
 
苦難の中で、「神はどこにいるのだ、神は私を見捨てた」と嘆く者がいるならば、確かに今、神は沈黙しているように思えるかも知れません、しかし、神は無実の独り子を有罪とすることによって、神が生きていること、神が愛であることを示されたのです。その神が、ご自分に寄り縋る者を見捨てるわけがないのです。
 
 
3.人類の罪と罰を負うために、あえて有罪となった救世主
 
 イエスが自ら進んで、死刑の宣告を受けてくれた目的はどこにあるのでしょうか。その目的は、二つあります。
 
 一つは私たちの罪の身代わりとなるためでした。罪のない人であるイエスが罪人(つみびと)である私たちの身代わりに死んでくれたことによって、神は私たちを罪のない者と認定してくださるのです。これは誰もが知っていることです。
 
 しかし、イエスはもう一つの目的を達成するために有罪となってくださったのでした。それは私たちが受ける筈の罰を代わりに受けてくれるためでした。
 
でも、罪は赦されても、罪の報いとしての罰は受けなければなりません。人を殺してしまった者は、家族が赦してくれたとしてもそれで済むわけではなく、定められた刑罰を受けなければなりません。
 
 実はイエスはこの時、罪の報いとしての罰を人間の代わりに受けるためにも、有罪となって死のうとしたのでした。
 
 宗教改革者となったマルティン・ルターを激怒させたものが、ローマ教皇庁が発行した御札(おふだ)でした。
これは一般には「免罪符(めんざいふ)」として知られています。「免罪符」とあるのだから「罪を免れるお札」という意味になるのですが、そうではありません。これは正確に言えば(そんな言い方はどこにもないのですが)罰を免れるための「免罰符(めんばつふ)」であって、専門的呼称は「贖宥券(しょくゆうけん)」でした。
 
ローマ・カトリックの教えでは、天国とこの世の間に煉獄という所があって、一般の信徒は信仰によって罪は赦されたとしても、だからといってすぐに天国に行けるというわけではなく、天国に行く前に煉獄という中間の場所で、罪の罰を受けなければならないと教えました。
煉獄は罪を「贖(あがな)」い、神を「宥(なだ)」めるために罰を受ける一種の刑務所というわけです。
 
ただ、聖人は有り余るほどの功徳(くどく)を積んでいるので、その功徳を分けてもらえれば、煉獄に行くことなく、天国に直行することができる、その聖人の功徳を分けてもらうために購入する必要があるもの、それが「免罪(罰?)符」「贖宥券」なるもので、ルターが耳にしたお札売りの口上は、「この箱の中で金貨がチャリンと鳴ったその瞬間に、煉獄にいるあなたの家族は天国に行けるのです」というものであったと言われています。
 
一五一七年十月三十一日、ルターは九十五カ条の質問状によって、ローマ教会に論争を挑みました。
 
そのタイトルは「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論」でした。
ルターはその第一条において、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』〔マタイ四・一七〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうのである」(「ルター著作集 第一集」緒方純雄訳 聖文舎発行)と言い切ることによって、聖人の功徳によらず、悔い改めてイエスを信じることによってこそ、罪と共に罰からも救われるということを指摘したのでした。
 
つまり、イエスは罪の身代わりだけでなく、罪の報いとしての「罰」をも身代わりとして受けてくれたのだ、だから聖人の功徳を購入する贖宥券などというお札は不必要なのだ、という意味です。
 
因みにローマ教会において洗礼の際に聖人の名をつける洗礼名というものがありますが、これはその名前の聖人が守護聖人となるという意味だけではなく、聖人の功徳を分けてもらうことができるように、との意味もあるそうです。
しかし、功徳はイエス・キリストの十字架の功徳だけで十分なのです。
 
イエスは「罪」だけでなく、私たち人類が受ける筈の「罰」をその身に受けるためにも、自ら進んで有罪となってくれたのです。
もちろん、この地上において、もしも刑法に触れるような犯罪を犯した場合には、所定の刑罰を受けなければなりません。
しかし、神への罪は罰もろとも、イエスの身代わりによって赦されているのです。つまり、イエスを信じる者は誰であっても信じた瞬間に無罪とされるのです。
 
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである」(コリント人への第二の手紙5章21節)。
 
 この場合の「罪のため」(21節)の「罪」には人が受けねばならなかった「罰」も含まれているのであることを承知してください。
 
待降節に入りました。今週は私のために敢えて沈黙を破って、自ら進んで有罪となったイエスを日夜、想う週でありたいと思います。


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