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2012年礼拝説教
2012年礼拝説教 : 2012年8月5日日曜特別礼拝(第三回)「人は神により、神に応答する者として創造された」創世記1章26、27節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-08-05 16:07:51 (866 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年8月5日  日曜特別礼拝説教(第三回)

「人は神により、
      神に応答する者として創造された」
     
創世記1章26、27節(旧約聖書 口語訳2p)
 
 
はじめに
 
 先月、落語家の桂三枝さんが上方落語の名跡である桂文枝を襲名し、「六代 桂文枝」を名乗ることになりましたが、この人の軽妙な話術は文章にも遺憾なく発揮されています。いつでしたか、桂三枝さんの体験談を読んで、腹を抱えて笑ったことがあります。
 
 ある時のこと、三枝さんが仕事で四国に行き、空港からタクシーに乗ったところ、運転席の背に、「私の名前は○○です」「私の趣味は釣りです」「私のモットーは誠実です」という表示があったので、そこで聞いたそうです。
 
「運転手さん、これは何ですか?」「ああこれは会社の方が、お客さんとのコミュニケーションをとるためということで、最近始めたものなんです」「そうなんですか。ところでこの、私のモットー言うんは会社が決めるんですか?」「いえいえ、モットーはそれぞれ自由です」「へえ、どんなもんがあります?」「はあ、やはり“誠実”というのが多いですかねえ」「運転手さんそれぞれの希望が通るわけですね?」「そうですが…、でも全部が通るわけではありません。会社の方からそれはダメ、と言われて不採用になったものもありますよ」「へえ、それは何ですか?」「たしか…、“当たって砕けろ”だったですかねえ」
 
 たまたま乗ったタクシーの運転手さんのモットーが「当たって砕けろ」だったら、タクシーに乗っている間中、乗客は生きた心地がしないかもしれません。しかし、乗客とのコミュニケ―ンをは図るという目的でタクシー会社が導入した「運転手の自己紹介」というアイデアはグッドアイデアだと思います。
私なんかは気を使う性格のせいか(笑い)、タクシーに乗るとついつい自分の方から話しを振ってしまうことが多いのですが、タクシーと言う狭い空間では沈黙はけっこう気づまりなものです。その点、乗客の趣味が同じならば、話しも弾むことでしょう。社会ではコミュニケーションをとるということは極めて重要な要素であるからです。
 
 私たちの教会では今年も六月から、月始めの日曜礼拝を特別日曜礼拝として、神について、そして人間についての講話を、聖書の創世記から初心者の方々にも分かり易く行っておりますが、第三回目の本日は、人というものが神からの呼びかけに応答する者として、神によって特別に創造された存在であるということ、それこそが人間の持つ特質であるということをお話させていただきたいと思います。
 
 
1.        人は神により、神の像すなわち神に応答する者として創造された
 
 教会に通うようになり、小遣いをはたいて買い求めた聖書の第二ページの、神が人間というものを自分のかたちに創造したという記述を読んで持った疑問は、神とは人間のようなかたちをしているのか、というものでした。
 
「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1章27節 旧約聖書口語訳2p)。
 
 でも段々とわかってきたことは、この「かたち」は外側の形体や形状のことではなく、目には見えない内側の、いわゆるイメージを意味するものであり、漢字を当てるならば「像」であって、多くの生き物の中でまさに人間のみ「神の像(かたち)」つまり神のイメージに似せて創造されたものであるということでした。
 
 この「神のかたち」の原語であるヘブライ語のラテン語訳は「IMAGO(イマゴ 像)DEI(デイ 神の)」で、「イマゴ」は英語の「イメージ」の原型です。
一般的に人の場合、子供によってはその親に見た目は全く似ていない場合がある、しかしその醸し出す雰囲気や所作が父親あるいは母親に何となく似ている、と感じられるケースがありますが、多くの動物の中で人間のみ、神に似せて、つまり神のイメージに似せて創造されたのだと聖書は言います。
 
 この「神のかたち」についてはスイス出身の高名な神学者で、一九五三年から五五年まで、国際基督教大学で教鞭を執ったことのあるエミール・ブルンナーは、それを「神からの呼び掛けに対する人間側の応答性」として説明をしております。
つまり、ブルンナーによれば人が神のかたちに造られたということは、人というものは本来、神からの呼びかけに対して応答する性質を持つ者であり、それはまた、人が神に向かって呼びかけることのできる者としても造られたという意味だというのです。
 
 つまり人という存在は、天地万物の創造者である神とコミュニケーションをとることのできるもの、神との交わりを持つべく造られた、唯一の存在であったというわけです。それは人間にのみ備えられた特質でした。
 
 一見、現代文明と隔絶したような生活を営んでいる部族にも、祈りや礼拝などの宗教的祭儀がある一方、人間以外の動物が神なるものに向かって祈ることも礼拝をすることもないという事実は、人のみが神への応答性という「神のかたち」に造られた証左であることを示すものと言えます。
 
つまり、神に祈ること、神を礼拝し、讃美するという行為は、弱者に対する強者の「溺れる者は藁にも縋る」という嘲りとは正反対の、まさに人が人であることを示す最大のしるしなのです。聖書は明言します、人は本来、天地万物の創造者である神により、神からの呼びかけに応答する者として造られたのだ、と。
 
 
2.        ところが堕罪によって神の像は破壊され、人は神を見失うこととなった
 
 では、神のかたちに造られた筈の人類が高度な文明を発展させる一方で、血で血を争う戦争を続け、惨たらしい犯罪行為を行うのはなぜかという疑問が生じます。
 
私が生まれた深川を含む東京の下町は、戦争末期の昭和二十年三月一〇日、米軍の戦略爆撃機B29編隊による空襲を受けました。東京大空襲です。下町は数時間で灰燼に帰し、十万人を超える無辜の民間人が殺されました。その前年までは米軍の軍事標的は軍事施設に限られていましたが、効果が出ないことに苛立った軍は方針を転換して、一般市民が住む市街地への無差別爆撃に踏み切ったのです。
未明、三〇〇機を超えるB29爆撃機から二千トンもの焼夷弾が落とされ、この結果、東京の下町は一面の焼け野原となり、成人はもとより乳幼児、児童、少年少女、女性、高齢者など一〇万人を超える一般都民が爆撃によりあるいは火炎によって苦しみながら死んでいきました。まさに鬼畜の所業以外の何物でもありませんでした。
 
八月には広島、長崎と相次いで飛来した米軍機から原爆が投下され、広島では十四万人から十五万人、長崎では七万〜八万人の非戦闘員である一般市民が虐殺されました。
後に「原爆を投下したのは百万のアメリカ兵を救うためであった」という説明がつくり出されましたが、原爆投下が非白人の日本人を実験台にした新型爆弾の効果実験という極めて非人道的な行為であったことは、広島の原爆がウラン型、長崎がプルトニウム型という種類の違いによっても明らかです。
 
世界で文明が最も発達した国と言われ、キリスト教国を標榜する国が、敵国とはいえ、武器を持たない一般民間人を大量虐殺した行為のどこに神のかたちがあるのかとは誰もが思うことですが、実は聖書は、創造時に人のうちに備えられた神のかたちは人間の堕罪によって破壊されてしまったのだと主張します。
 
 堕罪とは罪に堕ちることですが、聖書は人の罪というものを神との約束の違反であるとします。神のかたちに造られた人間に、神は命令をします。それは神が指定した木の実を取って食べることをしてはならない、もしも違反すると死ぬことになる、というものでした。
 
「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」(2章17、18節)。
 
 ところが人間は神との約束を破ります。それは蛇が、食べると死ぬどころか、神のようになれると誘惑したからでした。
 
「へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(3章4〜6節)。
 
 なぜ木の実を食べたことが罪なのか、ということですが、人が神との約束を破ったという行為も大きな問題でした。しかしもっと大きな問題はその動機にありました。人はへびの「それを食べると…神のように善悪を知る者となる」(5節)という言葉に釣られたのでした。被造物が創造者である「神のように…なる」、それが違反の動機でした。これを少し難しい言葉で「自己神化」と言うのですが、神の下に従属するよりも、偉大な神と肩を並べる立場に上りたいという思いが罪の本質なのです。
 
 そしてその結果、「神のかたち」は大きく傷つき、人は神とのコミュニケーションの手段を失い、それに加えて人とのコミュニケーションも歪んでしまったのです。それが、なぜ食べたのかと問う神に対する夫アダムの弁明の言葉に表われます。
 
「人は答えた、『わたしと一緒にしてくれた女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』」(3章12節)。
 
 神はアダムに、あなたはなぜ食べたのかと、食べた理由を問うただけなのですが、彼は自己正当化をはかるために、「女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(12節)と責任を妻に転嫁します。
しかもそれだけではありません。彼は自らの非を認めるどころか、「わたしと一緒にしてくれた女が」(同)と、あろうことか、エバを妻として彼に添わせた神に対して責任を転嫁しているのです。
 
 神が人に求めたものは下手な言い訳ではなく、真っ当な悔い改めでした。しかし、堕罪によって神のかたちを失った人間は、神を見失うと共に自己愛、自己保身の思いを増殖させていくことになります。
そして神の真意を汲み取ることが出来なくなった結果、神を見失って的外れの応答に終始し、助け手として与えられた妻との間にも断絶を生じさせてしまうことになります。
妻は夫の言葉をどのような思いで聞いていたのでしょうか。罪は人と人との間のコミュニケーションを歪(いびつ)なものに変え、軋みを生じさせるという結果を生み出すこととなったのでした。
 
 
3.しかし見えない神のかたちであるキリストにより、人は神のかたちを回復することが可能となった
 
 神による救済とは、別の面から見れば、失った神のかたち、破損した神のかたちの回復あるいは再創造であるということができます。
神学的には古来、神のかたちを鏡に譬えれば、堕罪によって神のかたちは粉々に破壊されたと見る学説と、割れた鏡がそれなりに物を映し出すことができるように、神への応答性、人への応答性と言う神のかたちは不完全ではあるが残存しているとする見解とがあります。
 
戦争末期の米国による日本本土に対する無差別爆撃や原爆投下などの、人はそこまで残虐になれるのかとも言える作戦行為を思うと、人は堕罪により、その神のかたちが完膚なきまでに粉砕されてしまったのだとする学説を証拠づけるものと思えます。 
しかし一方、人間世界に宗教があり、礼拝や祈りがあり、傷ついた者を思い遣る心があるということは、壊れた神のかたちがなおも残存しているしるしであると考えることもできるのでは、とも言えるのです。
 
昨年の東日本大震災で、日本人、特に被災した東北の人々の打算のない振る舞い、自らを犠牲にしてでも他者を救おうとした行動が世界中から称賛されましたが(詳しいことは大震災の二週間後にまとめた拙文「東日本巨大地震について」をお読みください)、手前味噌と言われることを承知で言えば、確かに日本の宗教は汎神論であり、多神教ではあるけれど、島国の日本には、神のかたちが最も色濃く残されてきた、それが大震災直後の日本人の行動に現われたのではないかと思うのです。
 
ロンドン・オリンピックで男子、女子共に日本のサッカーが快進撃を続けております。このまま行けば共にメダルも夢ではなくなってきました。特に女子のなでしこジャパンは、昨年のワールドカップにおける優勝チームということから金メダルの獲得が期待されているため、想像を超える重圧感の中にいることと思います。
 
思い出すのは一年前の決勝戦です。ゲームは米国チームが得点し、日本が追いつくという展開で進み、延長戦でも決着がつかず、PK戦にもつれ込んで、ついに日本が勝ちました。テレビ画面は歓喜に沸く日本人選手の集団を映していましたが、一人の日本人選手が意気消沈している米国人選手たちの所に近づいていく様が画面の左隅に映っていました。宮間あや選手でした。
 
その後、米国チームのフォワードのワンバックとゴールキーパーのホープ・ソロが米国のトークショー番組に出演して、宮間あやとのエピソードを紹介しておりました。
幸い、sasori390という方がブログにその部分をアップしてくれて、おまけに日本語訳の字幕までつけてくれています(「ホープ・ソロと宮間あやのちょっといい話」で検索)。
 
 ドレス姿のホープ・ソロ選手が流れるように語りはじめました。
 
「私は日本チームにとても仲のいい友達がいるの。彼女の名前はアヤ・ミヤマ。背番号8番で、最初のゴールを決めて2点目のアシストをした選手よ。試合の前に彼女がメールをくれてね。普通、試合前に敵と話なんか絶対にしないんだけど、でもね、すごくスポーツマンシップに溢れてて、感動したから返事を出したの。『結果はどうなろうと、とにかく楽しみましょう』って。試合が終わった時、アヤはまず私たちのところへ健闘を讃えに来たの。あの歓喜の輪に入らずによ。アメリカチームに敬意を表するために。だって彼女はどれだけ私たちが悔しい思いをしているかわかっているから。彼女たちの国がとてもリスペクトする心を持っていることがわかるわ」
 
 最後の言葉を多くの訳が「日本は尊敬すべき国」としているようですが、そうではなく、sasori390さんの訳のように、日本という国が他者を尊重する心を持っているという意味だと思います。 
 そしてさらにソロはその時の宮間選手への自分の気持ちを語りました。
 
「アヤ、あなたは日本で初めてのワールドカップを勝ち取ったのよ。私たちはいいから早くお祝いしなさいよって感じ」 
 
ちょっとどころかものすごくいい話しです。
宮間あや選手に、そしてホープ・ソロ選手には壊れた筈の「神のかたち」がいいかたちで残存しているのではと思います。
 
しかし、宗教性が豊かであれば、思い遣りの心があればそれで良いというわけではありません。神のかたちが残存しているとは言ってもそれは破損された神のかたちであることは事実であって、そのために、神を正しく映し出すことは不可能なのです。そして、そこで登場したのが見えない神のかたちである神の独り子イエス・キリストでした。
 
「御子は見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だってうまれたかたである」(コロサイ人への手紙1章15節 新約聖書口語訳314p)。
 
 目には「見えない神のかたち」であったキリストは、イエスとなってこの世に生まれ、人間が失った、あるいは破損した神のかたちを回復、あるいは再創造する道を設けて下さいました。
人は誰でも自己神化という罪を悔いて、心にイエスを信じ受け入れるだけで、神の呼びかけに応答し、かつ正しく神に呼びかけることが可能となり、人との間にも健やかなコミュニケーションが開始されることとなります。なぜなら、その瞬間から人は新しい人になったからです。
 
「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである」(3章9、10節)。
 
 神のかたちを色濃く持つ日本人が、いつの日にか、「天地の造り主、全能の父なる神」を信じ、「その独り子イエス・キリスト」を信じる民族となることを私たちは期待したいと思います。


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