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2012年礼拝説教
2012年礼拝説教 : 2012年7月15日日曜礼拝説教「死者のよみがえりは希望か幻想か」マルコによる福音書12章18〜27節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-07-15 16:39:06 (1238 ヒット)
2012年礼拝説教

 2012年7月15日  日曜礼拝説教

「死者のよみがえりは希望か幻想か」     

マルコによる福音書12章18〜27節(新約聖書 口語訳72p)
 
 
はじめに
 
   「シュウカツ」という言葉を聞きました。シュウカツと聞いた時には就職活動の「就活」のことかと思いましたが、そうではなく「終活」なのだそうで、では「終活」とは何かと言いますと、人生の終焉に向けての準備や活動をすることで、要するに自分の死後の葬儀や墓をどうするか、死に先立って財産の相続をどうするかなど、人生の終末に関する準備を指すのだそうです。
 
 寡聞にして最近まで知りませんでしたが、「終活」は三年ほど前のある週刊誌の連載から生み出された言葉だそうで、ネットを覗いてみましたら、社団法人が主宰する「終活カウンセラー」の資格取得講座があって、初級は六時間の講習受講料が七三五〇円、これが上級になると三一五〇〇円で、インストラクターになるには二日間の講習で一〇五〇〇〇円とか。
 
  葬儀や墓、相続の問題などは確かに、人生の終末期にさしかかった人が心配することでもあるのですが、死という深淵に近づいた人が一番心配するのは何といっても、死んだあと、自分はどうなってしまうのか、骨になって灰になって永遠に消滅してしまうのか、霊魂になって魂魄(こんぱく)がこの世を彷徨うのか、そもそも極楽や天国はあるのか、あるとしても自分は果たして行くことができるのか、もし行くことができたとしてもそこではどんな姿で存在するのか、家族や友人に再会することができるのかなど、わからないことだらけで、しかし終活カウンセラーに聞いたとして、「財産の相続問題や墓の準備などの心配事が解決すれば安心しますよ」と保証されても、根本的な疑問の答えにはなりません。
 
 人が死んだらどうのなるのか、という疑問はイエスの時代にもありました。
そして関西テレビの水曜アンカーではありませんが、この問題に関してイエスが明快に「ズバリ!」と答えている、それが今週の聖書テキストです。
 
そこで今週は、死者のよみがえりは確かな希望なのか、はたまた幻想でしかないのかという問題に切り込んでいったイエスの言葉に取り組みたいと思います。
 
 
1.「死者のよみがえり」は幻想ではなく実現する希望である
 
 「イエスに驚嘆した」パリサイ人とヘロデ党とがイエスの前からが退散したあとに、今度は「サドカイ人」が教理論争を仕掛けるためにやってきました。
 
「復活ということはないと主張していたサドカイ人が、イエスのもとにきて質問した、」(マルコによる福音書12章18節 新約聖書口語訳72p)。
 
 「サドカイ人」は千年前のダビデ・ソロモン時代の大祭司であった「ザドク」に由来するという説があります。
 
「王はまたザドクをアビヤタルに代らせた」(列王記上2章35節後半 旧約聖書口語訳479p)
 
 しかし、はっきりとしたことはわかっていません。サドカイ人についてのマルコにおける記述はここ一カ所だけなのですが、大祭司を中心とした祭司階級、そして神殿の利権を独占していた金持ち階級の多くがサドカイ人であったようで、それだけに彼らサドカイ人にとってイエスは、莫大な利益を生み出す神殿利権の占有を妨害する者、そして支配国ローマとの友好的関係の現状に罅(ひび)を入れる目障りな者として排除の対象であったのでした。
 
ところでサドカイ人の思想的傾向はいわゆる世俗的、現世主義的、合理主義的ともいうべきもので、神学的には霊の存在、天使の存在はもとより、死後の命も、死者の復活も信じられないという立場をとっており、ルカによれば、とりわけ、死者のよみがえりに関し、死者のよみがえりはあるとするパリサイ人とは対立関係にあったようです。
 
「パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、『兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである』」(使徒行伝23章6節 新約聖書口語訳223p)。
 
神と人の間の仲立ちを自負する祭司がこうですから、何とも腑に落ちませんが、何代もの世襲が使命感を失わせてきたのかも知れませんし、最高法院(サンヒドリン)の議員ともなると、神への信仰は形骸化していたのでしょう。
 
  この「復活ということはないと主張していた」(18節)、つまり、死んだ時点で人の存在は終焉すると信じていた「サドカイ人たち」(同)に対し、イエスは、サドカイ人が重視していたモーセの五書(ちなみにパリサイ人はモーセ五書と共に、他の旧約文書、さらには成文化されてはいない「先祖からの言い伝え」や諸種の規定も含めて、それらをひっくるめて「律法(トーラー)」として尊んでいました)の中の「出エジプト記」を取り上げて、サドカイ人が否定する死者の復活が五書においては現実の希望として、神自身によって証しされていることを論証したのでした。
 
「死者がよみがえることについては、モーセの柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」(12章26、27節)。
 
 「柴の篇」(26節)というのは、モーセが神の山ホレブで、燃えているように見える柴の炎の中に神が現われて、モーセをエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民の解放者とするという託宣をした箇所のことです(出エジプト記3章1〜6節 旧約聖書口語訳76p)。
 
  イエスはこの時のモーセに対する神の言葉が、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」であったことを指摘し、もしもアブラハムやイサク、ヤコブなどのイスラエルの先祖たちが、死んでしまった、すなわちサドカイ人の理解によれば消滅してしまった過去の人間であるならば、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と、過去形で表現する筈ではなかったかと指摘したのです。
実際、モーセの時代までに、アブラハムが死んでから四百年は経っていました。
 
だから神がモーセに向かって「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語ったということは、アブラハムをはじめとする死者たちは消滅してしまっているわけではなく、生きていることになるのではないか、生きているのであれば、復活を否定する論拠は何なのか、あなたがたが神の言葉とする文書は死んだ者の神ではない、神は生きている者の神なのだと、サドカイ人らが重視している五書の記事から、死者がよみがえるということを論証し、死者の復活そのものを否定するサドカイ人の主張を吹き飛ばしてしまったのでした。
 
 死者のよみがえり、それは狂信者がつくりあげた幻想ではありませんし、現実から逃避したい一心で弱者が夢想した根拠のない願望でもありません。
 それは人類の未来において現実に起きることであり、キリストを信じる者の将来に神が実現してくださる一大イベントなのです。
 
そこに人類の希望があります。つまり、神の創造の働きによって百三十七億年前に始まった宇宙、そして四十六億年前に誕生した太陽系、そして時の満ちるに及んで行われた人類創造のみ業は、未来における死者のよみがえりによって完了、完結するのです。
 
 
2.「死者のよみがえり」は新しい絆の実現である
 
  サドカイ人らは、死者のよみがえりという、いわば宗教的保守派が大事にしてきた教理が、理に合わない馬鹿げた時代遅れの教えであることを明らかにしてイエスを追い詰めようとし、そこでモーセ五書の五番目の文書である「申命記」の規定を持ち出したのでした。
 
「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなければならない』」(12章19節)。
 
  こう言ってから彼らは、七人の兄弟がいた、長男が死んだので次男が兄嫁と再婚した、しかし、この次男も死んでしまったので、三男が兄嫁と再婚し、三男も死んだので、四男がと、次々と弟が兄嫁と結婚した。こうして七人が死に、そして妻も死んだ。では死者がよみがえるのであるならば、そのよみがえりの時には、この女は七人の夫の誰の妻ということになるのか、という質問をしたのでした。
 
「ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。こうして七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女は死にました。復活のとき、彼らは皆よみがえった場合、この女はだれの妻でしょうか」(20〜23節)。
 
この規定そのものは家名の継続と財産の存続のために定められたもので、古代世界共通の一般的ともいえる民法の一つでした。
 
「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女のところにはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。そしてその女が初めに産む男の子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない」(申命記25章5、6節 旧約聖書口語訳281p)。
 
しかし、この規定をイエスへの攻撃材料に選んだサドカイ人のミスは、聖書に関する無知にありました。そこでイエスは彼らの無知を指摘しつつ、復活後の様相について説きます。
 イエスは言いました、「死人がよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使(みつかい)のようなものである」と。
 
「イエスは言われた、『あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使(みつかい)のようなものである』」(12章24、25節)。
 
イエスによれば、人は天の国においては男あるいは女というかたちでなく、御使のように性の別を持たない存在となり、それはとりもなおさず、夫婦であったものも地上におけるそれまでの夫婦関係とは異なった関係になるということ、お互いは神の子供たち、神の家族という関係で生きる、つまり、地上における家族関係は天においては昇華(しょうか)といって発展、完成した状態になる、というのでした。
 
キリスト教結婚式では誓約において、互いが節操を守る夫婦の期間として、「死が二人を分かつ迄」としますが、それは両者が地上の生涯を終えたあと、天においては新しい関係で生きることを示唆しているのでしょう。
 
 この地上では、人はしばしば、その家族関係において悔いを残すような経験をすることがあります。
 子供としてもっと親に尽くすべきであった、親として子供には不十分なことしかできなかった、夫として妻への労わりが足りなかった、妻としてもっと夫の世話をしてあげたかったと思いつつ、地上の別離の日を迎える場合があります。
 
しかしその不足分は天において補われます。なぜなら、よみがえった死者、つまり復活した生者同士の関係こそ、地上における不完全な関係の完結した状態であるからです。そこには後悔も自責もありません。そこに溢れるものは満足と感謝、そして神への讃美です。
 
 死者のよみがえりは時間の無限継続としての単なる永世ではありません。人生の完結と止揚とを意味するのです。
だからこそ私たちはその完結に向かって、人生の一ページ、一ページを汗と祈りによって書き続ける勇気を得るのです。それこそが本当の「終活」です。よみがえりの希望こそが、人生の力なのです。
 
 
3.「死者のよみがえり」は神と神の言葉で理解に至る
 
不思議なのは高度な教育を受け、豊かな教養を身につけていた筈のサドカイ人が、「聖書」についても「神の力」についても無知蒙昧であって、反対に専門的な神学教育を受ける機会もなく、その日のパンを稼ぐため、額に汗してひたすら労働に明け暮れていた筈のイエスが、聖書の教えに関して的を射た正確な解釈を施し、見事な論理を展開しているという事実です。
それはなぜか。イエスはサドカイ人の思考の問題点を指摘し、その原因を分析します。
 
「イエスは言われた、『あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか』」(12章24節)。
 
 サドカイ人の誤りは、自分たちが「知らない」ということを「知らない」ことにありました。つまり、彼らは自分たちこそ知的であり、知者であると過信していたからこそ、死者のよみがえりという、重要な教理に対する無知と偏見に陥ってしまっていたのでした。
 
 サドカイ人の思考の特徴は、よく言えば合理的、しかし実際は自分の目に見えるものだけを信じ、見えないものは「無い」と否定することにありました。しかし、人間の知性や経験を基にしてつくられた常識には限界があるのです。
 
 宗教なんて、と言って、信仰を鼻先で笑う人がいます。しかし昔も今も、偉人と言われる人ほど謙虚であって、人間を超越する崇高な存在、偉大なるものへの崇敬の思いを持っています。
 
当時の聖書の多くは動物の皮をなめしたものに一字一字筆写された巻物でした。そしてサドカイ人の家々には、高価で貴重な聖書の巻物が備えられていた筈です。
しかし、イエスの家には巻物となった聖書はおそらくはなかったことでしょう。ですから十三歳になるまでは会堂の学校で聖書を学び、社会人となってからは厳しい労働の傍ら、会堂で聞く「聖書」の言葉を心に蓄えて咀嚼をし、深い思考を積み重ねて「聖書」本来の主張を正しく理解するに至ったのがイエスだったのです。 
 
 また、イエスは孤独の祈りと厳しい暮らしの中で、「神の力」の偉大さを経験したに違いありません。イエスがしばしば弟子から離れて、ひとり朝早く祈り、また夜を徹して祈ったという福音書の記述(1章35節、6章46節)は、イエスの少年時代からの習慣の現われであったと思われます。
イエスは朝夕の密室の祈りによって神を身近に感じ、そして日々の過酷ともいえる暮らしの中で大いなる「神の力」を知ったのでした。
 
 聖書は確かに難しい、それはその通りです。しかし正しい方法で、そして心低くして聖書を読むならば、神の言葉は私たちの暗愚な心を照らし、行くべき道を示して、信ずべき真理、知るべき教えへと導いてくれるのです。
 
「御言葉(みことば)が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます」(詩編119編130節 新共同訳)。
 
 死者のよみがえりの教えは、俄かには信じられないかもしれません。しかし、死者の復活は決して幻想などではなく、人生に勇気を与える確かな希望の根拠なのです。死者のよみがえりという希望と確信を抜きにしては、「終活」の努力は画竜点睛を欠くこととなります。
「終活」に傾けているエネルギーの幾分かを、神の言葉である聖書の研究に向けてみてはいかがでしょうか。


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