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2015年礼拝説教
2015年礼拝説教 : 2015年11月1日 第回六日曜特別礼拝説教 祝福された人間関係Α/祐峇愀犬魄貎靴垢襯リストの贖い コリント人への第二の手紙5章17節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-11-01 16:46:09 (714 ヒット)
2015年礼拝説教

15年11月1日 第六回日曜礼拝説教

 
祝福された人間関係 その六(最終回)
 
人間関係を一新するキリストの贖い
 
コリント人への第二の手紙5章17節(新約口語訳283p)
 
《説教の梗概》
1.「原罪」の究極の現われが、理不尽極まる兄弟殺し
2.「神のかたち」の現われが、驚嘆すべき自己犠牲
3.「キリストの贖い」の現われが、奇跡の悔い改め
 
 
はじめに
 
二〇〇一年九月の米国における同時多発テロで一躍有名になった人物が、米国人の国際政治学者、サミュエル・ハンティントンでした。
 
この人はその著書「文明の衝突」(鈴木主税訳 集英社 1998年)の中で、世界の主要な文明として、中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、東方教会文明、西欧文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の八つをあげましたが、中でも注目すべき事は、台湾、朝鮮、韓国、ベトナム、シンガポールなどを中華文明の範疇に入れながら、その中華文明とは別に、日本一国で成立した文明として、日本文明を挙げていることでした。
 
つまり、日本列島の中で、世界八大文明の一つとして育まれた文明が日本文明であるというわけです。別に「日本は偉大なのだ」と威張る必要はありませんが、「日本はダメな国だ」と卑下することもないのです。
 
多くの日本人はあまり意識をしていませんが、ペルーの黒船来航による開国に伴なって、諸外国から日本を訪れた多くの知識人が、日本人に接して一様に感嘆し、賛辞を述べているのです。
 
例えば米国の動物学者で、大森貝塚を発見し、日本考古学の父と呼ばれたエドワード・シルヴェスター・モースなどは、盗難が多発する自国に比して、日本では盗みなどの犯罪が皆無であることに驚嘆しています。
 
モースは彼自身の経験として、「クリーニングに出すためコートを持って行った日本人召使が、ポケットに小銭が入っていたのに気付いて持ったきた」などの体験をあげており、一方、自国の例として、容器を壁に取り付けた液体石鹸が発明されたのは、公共の場から(固形)石鹸が盗まれることに業を煮やした結果であるとも述べているそうです(波田野 毅著「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言 33撰」ごま書房)。
 
モースは今から九〇年前に死去していますが、西欧文明に包含される米国は、二十一世紀の現代でも犯罪多発国家であり、また、中華文明の発祥を自負して「中華民族の偉大なる復興」を主唱する共産中国からの旅行客は、滞在先のホテルの備品を持ち去るなどして、どこの国でも鼻つまみ状態です。
 
尤もそんな中国ですが、十月の末の山東省において、走行中のトラックから鶏卵を積んだ箱が道路に落下した際、これまでの同国ならば、附近の住民がソレッとばかりに群がって、根こそぎ持ち去るのが当然のことなのに、何と、そこに居合わせた通行人たちが、箱を拾っている運転手を手伝ったというのです。
「中華民族の偉大なる復興」の前触れ(?)だとよいのですが。
 
「人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」をモットーとする(中華)文明も、「人のものは人のもの、自分のものは時には人のもの」と考える(日本)文明も、人間から生み出されたものであって、両者の違いは相対的なものです。
世界の偉人たちを感嘆させた日本文明ですが、それ自体は不完全なものであって、日本人も中国人同様、神の救い、キリストの贖いを必要とする存在です。
 
今年、「祝福された人間関係」を主題として、六月から始めた日曜特別礼拝ですが、いよいよ今回で六回目、最終回を迎えました。
 
そこで最終回においては、「キリストの贖い」が人を変え、そして「人間関係を一新する」鍵であることを、ご一緒に確認したいと思います。

 

1.「原罪」の究極の現われが、理不尽極まる兄弟殺し
 
神との約束に背いたため、楽園を追放されたのがアダムとエバですが、彼らに子供が生まれました。カインとアベルです。
 
「人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、『わたしは主によって、ひとりの人を得た』。彼女はまた、その弟アベルを産んだ」(創世記4章1、2節 旧約聖書口語訳4p)。
 
知恵文学の一つとして、最終的に紀元前三世紀に編集された「箴言」には、「兄弟はなやみの時のために生まれる」とありますが(17章17節後半)、アダムとエバとの間に生まれたこの兄カインは、弟を守るどころか、何の罪もない弟を殺害するという、忌まわしい兄弟殺しをしたのでした。
最初の殺人は、人類の祖であるアダムとエバの長男によって犯されたのでした。
 
「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」(4章8節)。
 
カインのアベル殺害の直接の動機は、表向きは弟アベルに対する嫉妬心と見られますが、実は、神が己を軽視するのみか、弟を贔屓しているという思い込みによる、神への復讐としてなされたと思われます。それは二人の供え物に対する神の評価をめぐって決定的となりました。
 
「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかし、カインとその供え物とを顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」(4章3〜5節)。
 
 神による評価の違いは、両者の姿勢にあったと推察することができます。
 「アベルとその供え物とを顧みられた」(4節)、「カインとその供え物とは顧みられなかった」(5節)とありますように、「顧みられた」「顧みられなかった」のは、「何を」という具体的な「供え物」よりも、「誰が」という両者の礼拝の姿勢、神への感謝の有無にあったと考えてよいでしょう。
 
つまり、「アベル」の純なる気持ちが神に「顧みられた」一方、「カイン」の悪しき根性が神に「顧みられなかった」と思われます。神は心の深みを見抜くお方だからです。
 
 しかもカインが弟を殺したのは、弟への敵愾心だけではありませんでした。神のお気に入りの弟を殺すことが、自分を顧みてくれない神への報復となると考えたのだと思われます。
 
 これが罪の根としての原罪です。原罪は基本的には、神への敵意という性格を持つものであって、それが、「なやみの時のために生まれ」(箴言17:17)た筈の兄弟を殺害するという極端な形で現われたのです。
 原罪の象徴的な表れが、弟の所在を訊かれた時のカインの答えに見ることができます。
 
「主はカインに言われた、『弟アベルはどこにいますか』。カインは答えた、『知りません。わたしが弟の番人でしょうか』」(4章9節)。
 
 人というものは、家族、兄弟、身内だけでなく、隣り人を悪や事故から守る「番人」(9節)としてこの世に呼び出された存在なのです。
 そして、この「番人」という立場の放棄こそが、人が原罪に支配されているしるしでした。
 
 何度も申し上げておりますが、私が、自分が罪びとであるとの自覚を持ったのは、自分が原罪の下にあるとの自己認識に至ったのは、ある説教集の中の、「もしも眼で人を殺すことが出来るならば、街路は死人で満ちるであろう」という言葉が、心に深く突き刺さったからでした。
 
確かに「ナイフで人を殺してはいない、しかし、人を無視し、あるいは憎むことによって、これまでにも心の中で、あるいは視線においては何人もの人を抹殺してきた」ことに気付いた時、確かに自分はカインの末裔(まつえい)である、という事実を悟ったのでした。
 
 
2.「神のかたち」の現われが、驚嘆すべき自己犠牲
 
カインの行為は原罪という罪の、極端な現われですが、一方では、人というものはもともと、「神のかたち」として造られた者でもあります。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)。
 
この「神のかたち」(27節)は、ラテン語では「イマゴ(イメージ)・デイ(神の)」です。
「神のかたち」とは何なのかということですが、これを関係概念で見れば「神への応答性」、実質概念で言えば「神の性質の分与、あるいは相似」と見ることができます。
 
人は時として、この「神のかたち」(27節)の残存を見せる場合があります。それは忠誠とか友情、信義、自己犠牲などの道徳的美徳として出現します。
 
実は、キリスト教神学では古来、「神のかたち」の理解については二つの見方があります。一つは「神のかたち」は徹底的に破壊されたとする立場で、これは古代教父のアウグスティヌスや、宗教改革者のルターなどが取る立場です。
 
これに対して、「神のかたち」は汚染はされてはいるけれど、自由意志などとして、残存をしていると考える立場があります。
 
鏡を例に取れば、前者は「神のかたち」という鏡は原罪によって粉々に砕けてしまっている、とするのに対し、後者は、「神のかたち」である鏡は、確かに割れてしまってはいるけれど、その破片は不完全ではあっても、物ごとを映し出すことができる、とします。
 
私としましては後者の立場の立場を取るのですが、そのしるしが日本人の存在であると思っております。
日本文明は、そしてエドワード・モースが感嘆した日本人の倫理性などは、また、新渡戸稲造が描いて世界を驚嘆させた「武士道」に見られる日本文化は、人間が「神のかたち」に創造された事実の名残を示すものであるのかも知れません。
 
その名残りは、古代イスラエル民族にも受け継がれていると思われます。
前回(10月4日)の講話において統一イスラエルの王となったダビデの若き頃のエピソードを取り上げましたが、ダビデという人物は、原罪の現われとしての罪深さと、「神のかたち」の残存としての麗しさの両面を持った興味深い人物です。
 
彼はバテシバの一件に見られますように、非常に自己中心的な罪を犯しましたが、反面、他者に対して人情に篤く、その情の深さのゆえに、自らの欲望に打ち克つ心の強さを見せたりもする一面がありました。
 
南ユダ王国に連なる王たちの業績を取り上げた歴代志上には、ダビデが統一イスラエルの王となる前、ペリシテ人との苦難の戦いに明け暮れていた時の部下との感動的なエピソードが記録されています。それは、「神のかたち」の残存のしるしとして理解することができるエピソードです。
 
パレスチナの地中海に面する西岸に勢力を張っていたペリシテの軍勢が、パレスチナ中部のベツレヘムにまで侵攻してきて、ダビデの軍勢と激しい戦闘を繰り広げていた時のこと、ダビデは非常な喉の渇きを覚え、思わず、「誰かベツレヘムの門の傍らの井戸から、水を汲んできてくれるとよいのだが」と呟きます。
これを聞いた三人の勇士はダビデのため、自陣を飛び出し、ペリシテ人の軍勢を突き破って、敵陣の真っただ中にある井戸に達し、その井戸から水を汲んで自陣に戻り、その貴重な水をダビデに捧げたのでした。
 
 ところがダビデはその水をがぶ飲みするかと思いきや、勇士たちがダビデのために命がけで汲んできたその貴重な水を、神への供え物として地に注いで、飲もうとしなかったのです。彼にとって、その水は、勇士たちがその血によって贖った尊い供え物に思えたからでした。
 
「そこでその三人はペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って、ダビデのもとに携えてきた。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、
言った、『わが神よ、わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとってきたのです』。それゆえ、ダビデはこの水を飲もうとはしなかった。三勇士はこのことを行った」(歴代志上11章18、19節)。
 
 三勇士の驚くべき勇気、献身的な自己犠牲と、彼ら三勇士の行動に対するダビデの理屈を超えた応答は、合理的であることこそがベストであると考える者には、何とも理解不能に見えると思います。しかし、今もなお「神のかたち」が残存していると思われる日本人には、深く共鳴することのできるエピソードであると思います。
 
 
3.「キリストの贖い」の現われが、奇跡の悔い改め 
 
 人は時には醜く、時には麗しい姿を見せます。その複雑さこそが人間が持つ特徴の一つなのだと思ってはいても、人は自らを持て余して悩み、現状からの脱皮、脱却を願い求めてやみません。
 
 西暦三十年四月、一人のユダヤ人政治犯がローマ帝国の裁判を受け、ローマの法により、十字架に架けられました。
 その隣りには、「ナザレの王」を自称したという罪状で十字架に架けられた死刑囚がおりました。
 
 
 
 ところがこの死刑囚の口から漏れ出たのは、世を呪う呪詛の言葉でもなければ、神への泣き言や助命嘆願でもなく、「父よ、彼らを赦し給え、その為す所を知らざればなり」と、おのれを嘲弄している自分たち、あるいは自らを十字架に架けたユダヤ議会の指導者、ローマの官憲のため、心からなる神への執り成しの祈りだったのでした。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼ら何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節前半 新約口語訳133p)。
 
 テロリストは耳を疑い、彼と自らとを比較する中で、自らの罪深さに気付くと共に、この死刑囚こそが真の救世主であることに思い至ります。そして素直に過去の罪を告白、懺悔し、この死刑囚こそが神から送られたキリストであることを、衷心から告白するに至ります。
 
「そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』」(23章42節)。
 
 すると思いもかけない宣言が彼に告げられます。「あなたは私と共に今、神の楽園に入った」と。
 
「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」(23章43節)。
 
 このキリストによる宣言は今も、神なき人生を悔い改めて、イエスを神の御子、主なるキリストと信じれば、誰にでも与えられます。
 イエスを主キリストとすることが、キリストの内に存在することを意味するからです。
 人生は新しくなり、その結果、人間関係も一新されます。
 
 なぜ、そのようなことが可能なのかと言いますと、イエス・キリストの死が贖(あがな)い、つまり人類の罪の償いの死であったからです。
 キリストは極悪人のためにも小悪人のためにも、そして極善人のためにも小善人のためにも、罪の身代わりとなって死んでくれたのでした。
 すべての罪は償われているのです。その結果、すべてが新しくなりました。
 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人への第二の手紙5章17節)。
 
 「神のかたち」が比較的残存しているような人も、完全に破壊されたかのような人も、「その人は新しく造られた者」(17節)となるのです。その証拠が十字架の上で悔い改めたテロリストの存在でした。
 このテロリストの過去である「古いものは過ぎ去っ」(同)て、「すべてが新しくなった」のです。勿論、自らが犯した法的な意味での罪は法に従い、自らの死をもって償わなければなりませんでした。
 
 しかし、このテロリストにとり、死は終わりではなく、新しい命の始まりとなったのでした。
 キリストの執り成しが彼の内に奇跡の悔い改めを惹き起こし、その悔い改めが神に受け入れられて、キリストの贖いが適用されることとなったからです。
 
 この「キリストの贖い」は、今も、そして誰にでも有効です。


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