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2015年礼拝説教
2015年礼拝説教 : 2015年10月18日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話ァ‘鷽預子の譬え―弟は、後で心を入れ変えて父の心に従った マタイによる福音書21章28〜32節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-10-18 16:49:05 (873 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年10月18日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話

二人の兄弟の譬え―弟は、後で心を入れ変えて父の心に従った

マタイによる福音書21章28〜32節(新約聖書口語訳34p)


《今週の説教アウトライン》

1.最善の人生とは、最初から最後まで神の言葉に従順な人生のことである
2.次善の人生とは、後から心を変えて神の言葉に従う人生のことである
3.最悪の人生とは、心を変えずに最後まで神の言葉を無視する人生のことである


はじめに

長い間生きてきましたが、ラグビーというスポーツがこんなに面白いものだとは、今の今まで気がつきませんでした。
二〇二〇年に日本で開催される東京オリンピックの前年に、日本でラグビーのワールドカップが行われるというニュースは、新国立競技場のゴタゴタで耳に入ってはいました。しかし、ラグビー=日本は弱い、という先入観がありましたので、九月二十日の日曜日の午後に放映されていたワールドカップの南アフリカ戦も、途中から何気なく観戦したものでした。
 
ところが何と何と、日本は優勝候補でもある南アフリカと対等に戦っているのです。試合が経過するに従い、徐々に引き込まれていって、後半の終了間際の南アフリカの反則による、ペナルティーゴールを狙えば同点の引き分けに持ち込めるという局面で、日本がリスクのあるスクラムを果敢に選択をし、しかも劇的なトライを決めて南アフリカに逆転勝利した時には、すっかり興奮して俄かラグビーフアンになってしまいました。
 
最終的には三勝しながらも、ボーナス点が加算されるトライの少なさが仇となって、決勝トーナメントに進むことができず、予選敗退という結果になりました。
しかし、「出ると負け」の日本が三勝一敗という目覚ましい成績を上げたのですから驚きでした。
そしてその陰には、エディ・ジョーンズというヘッドコーチによるハードトレーニンがあったからだということでした。これがあったからこそ、代表選手たちの、とりわけスクラムを組むフォワードの筋力と体重が飛躍的に増えて、大柄な外国チームにも組み負けをしないチームになったそうなのです。
 
もちろん、いくら効果的なハードワークメニューを監督が用意したとしても、それを選手たちが拒んでしまえば力はつきませんし、力がつかなければ世界を驚かせ、多くの日本人を感動させた今回の結果を得ることはできませんでした。
 
選手たちがヘッドコーチを信頼し、その指示に従って苛酷とも言えるスケジュールを消化したからこその勝利であり、栄光であったわけです。
盲従や面従腹背は問題ですが、その趣旨や目的を理解し納得をした上で、指導者の指示に従うということは実に重要なことです。
 
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の第五回目では、「後になったとしても、思い返して従っていく」ということの重要性について教えられたいと思います。
 
 
1.最善の人生とは、最初から最後まで神の言葉に対して従順な姿勢を貫く人生のことである
 
イエスが語られた譬え話しを正確に理解するためには、その譬えが誰に向かって語られたのかと言う、譬えの対象を知ることが大切です。
そして、今週取り上げる「二人の兄弟の譬え」は、イエス時代の支配階級の人々、特に法律を定め、その法律を適用してユダヤ社会の住民を裁く、最高議会サンヒドリンの主要な構成員に向かって語られたものでした。
 
「あなたがたはどう思うか」(マタイによる福音書21章28節前半 新約聖書口語訳34p)。

 場所はエルサレム神殿の境内です。その境内においての、イエスの問いの相手である「あなたがた」(28節)とは、イエスへの民衆の信頼性を崩そうとして、イエスに質問をしてきた宗教指導者たちのことです。

「イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、『何の権威によってこれらのことをするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか』」(21章23節)。
 
 ユダヤ最高法院サンヒドリンは「祭司長たちや民の長老たち」(23節)七十人の議員によって構成されていて、ローマ帝国からゆるされた自治権に基づき、社会的、宗教的権威をユダヤ住民に行使しておりました。
イエスの「二人の兄弟の譬え」はそういう彼らに向かって語られたものでした。
 
「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『お父さん、参ります』と答えたが行かなかった。また弟のところにきて同じように言った、彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みとおりにしたのか」(21章28〜31節前半)。
 
 譬えの中の、ぶどう園の経営者である父親の二人の兄弟に対する指示は、「ぶどう園へ行って働いてくれ」(28節)というものでした。
 
今回の譬え話しシリーズの最初に取り上げた、「ぶどう園に遅れて雇われた労働者の譬え」でも触れましたが、ぶどうは人手をかけて集中的に摘み取ることが求められる作物でした。
ぶどう園の経営者である「父」は、二人にぶどう園での監督業務を期待したのかも知れません。
 
兄は最初、「参ります」(29節)と従順に即答します。しかし、それは口だけでした。彼はぶどう園に「行かなかった」(同)のです。
もう一度、読みましょう。
 
「すると彼は『お父さん、参ります』と答えたが行かなかった」(21章29節)。
 
行こうと思っていたけれど「行かなかった」(29節)のか、始めから行く気が無かったのかは定かではありません。とにかく行くと言って「行かなかった」のです。
 
一方、弟の方は父の指示に対して最初、「いやです」(30節)とにべもなく拒絶するのですが、後になって自分の態度を反省したのでしょう、「ぶどう園」へと働きに出かけます。
 
「彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えてでかけた」(30節)。
 
 イエスの問いは「このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」(31節)という、兄弟を比較したものになってはいますが、本来の「父の望み」(31節)は二人が最初に「参ります」と返事をした上でぶどう園に行き、最後まで仕事をすることでした。
 
 この「譬え」の「ある人」(28節)とは「父」(31節)なる神のことであって、二人の息子は「兄」が「祭司長や民の長老たち」(23節)に代表される正統ユダヤ教徒を、そして「弟」は血統的にはユダヤ人ではあっても、正統的ユダヤ人からは、律法を守らない罰あたりの罪びととして蔑まれていた人々を指します。
 
 「父の望み」(31節)すなわち、父なる神の私たちに対する希望は、「参ります」と従順に応答して、それを口だけでなく態度と行動で示すことでした。つまり従順な姿勢を貫き通すこと、それが神の、人に対する望みでした。
 
そういう意味において、最初から最後まで、神の言葉と心に従って、「父の望みどおりに」(31節)その人生を生きたのは、人としてのイエスだけでした。
 
このイエスの従順によって、イエスを信じる者はただ信じるだけで、神に義とされて新しい人生へと踏み出すことができるようにされるのです。
 
「すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人(つみびと)とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ人への手紙5章19節 239p)。
 
 くどいようですが、最初から最後まで、神に対して完璧に従順であり続けたのは、人として生きたイエスひとりだけです。
 
しかし、人生の出来るだけ早い時期に神の言葉と出会い、できるだけ若い時に神の存在と神の意思とを知らされて、イエスを主と信じる信仰を告白して、イエスの歩んだ信仰の道を往くことが、人としての最善の人生です。
 
 古代の中国は、人の一生というものを年代別に色で分けました。
青春(せいしゅん)、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)です。
 
もしも青春という時期に、神の福音を聞いたのであれば、福音を受け入れる決心を先に延ばすのではなく、「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12章1節)とあるように、「若い日に」こそキリストへの信仰を告白し、神の言葉に従うこと、それが最善の人生といえます。
 
そういう点では、先週の説教でも取り上げましたアルベルト・シュバイツァーなどは、子供のころからまっすぐに神に従ったという意味において、最善の人生を歩んだ幸いな人と言えるかも知れません。
 
できれば青春どころか思春期、学童期の子供たちが、人生の始めに生ける真の神を信じて、神の言葉に従う日々を生きる者であって欲しいと心から思います。
 
 
2.次善の人生とは、後から心を変えて神の言葉に従い直す人生のことである
 
このように人生における最善は、出来るだけ早い時期に神への従順という生涯に入ることですが、様々の事情でその機会を逃してしまった者にも、神は最善に次ぐ人生、つまり次善の人生を備えてくださいます。
それが譬えに示された「弟」(30節)の行動です。
 
「弟」は最初、父の要請をけんもほろろに「いやです」(同)と拒みました。彼には「父」の言うとおりに「ぶどう園」で汗水流して働くことなどは、ばかばかしいことのように思えたのかも知れません。
しかし、弟はその後に反省をします。そしてぶどう園へと出かけて行きます。
 
「また弟のところにきて同じように言った、彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた」(21章30節)。
 
「あとから心を変えて、出かけた」(30節)とありますが、この「心を変えて」と訳された原語は、「変化」という言葉と、「気にする」という言葉が合わさったものです。つまり、気が変わったというわけです。
弟は確かに最初、「いやです」と断りました。しかし、時間が経過するに従い、気持ちが変わってきます。
 
「父に対して何と冷淡なことを言ってしまったのだろう」という咎めの気持ち、悔いる心が湧いてきて、その気持ちが彼をぶどう園へと向かわせたのでしょう。
 
ある人は、「人生は長くはない、若いうちは人生を謳歌しなければもったいない、信仰なんかは年寄りのするものだ、神に従うなどという人生は辛気臭い」と思っているかも知れません。
 
イエスの時代、事情や理由は異なっていたとしても、結果的に、神に従わない生き方を選んだ人々がいました。
その代表的な人々がローマやヘロデ家から徴税を請け負って、それを生業(なりわい)とする取税人たちであり、身を売って金を稼ぐ売笑婦たちであって、正統的ユダヤ教徒たちから、地獄に堕ちると蔑視された人々でした。
 
しかしイエスは、彼らは「あとから、心を変えて」(30節)神のぶどう園に向かった者たちであって、彼らこそが地獄どころか神のいます「神の国にはいる」と断言したのでした。
 
「イエスは言われた、『よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた』」(21章31節後半、32節前半)。
 
たとい「あとから」(30節)であっても、つまり、「青春」を過ぎて壮年という人生の盛りの「朱夏」を経、さらには「白秋」という円熟の時代を越えて、老いの「玄冬」の年代になったとしても、「心を変えて」(同)神の御言葉に従うことが大切なことなのです。
神は今も、「あとから心を変えて」(30節)神の示す所へ「出かけ」(同)る者を喜んでくださいます。
 
キリスト教国ではない日本では、多くの人がこの「弟」(30節)のように「あとから心を変えて」(30節)神に従っています。
それは最善と比べれば、次善の人生であるかも知れません。しかし、それもまた善なる人生、喜ばしい人生なのです。
もう遅い、手遅れだということは決してありません。「あとから」(30節)であったとしてもその決断は、「父」(31節)なる神が喜ぶ、神の「望みどおり」(同)の行動なのです。

 

3.最悪の人生とは、最後まで心を変えずに神の言葉を無視する人生のことである
 
 最善の人生、次善の人生を見てきましたが、残念な人生があります。最悪の人生と呼べるものです。
それが「心を変え」(30節)ることなく、最後まで自己を正当化し、神に対して不従順を貫く生き方のことであって、その代表が「祭司長たちや民の長老たち」(23節)でした。
 
「というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」(21章32節)。
 
 彼らは譬え話しの中の「兄と弟とどちらが父の望み通りに行動したか」というイエスの問いに対して、正しい解答をしております。
 
「彼らは言った、『あとのものです』」(21章31節後半)
 
 しかし、彼らはその判断を自分たちに適用しようとは思わなかったのでした。つまり「心をいれ変え」(32節)なかったのです。というよりも、自分たちこそ、神に従っていると自負していたのでした。
 
譬えの中の「心を変えて」(30節)という原語が、「変化」と「気にする」という言葉から出来ている、と申しましたが、イエスの解説の方の「心をいれ変えて」(32節)も同じ原語で、これは反省する、後悔する、という意味の言葉です。
 
そしてこれによく似ているものが「悔い改め(メタノイア)」と訳されている言葉でした。
これは「変化」と「理解する」という言葉から出来ていて、問題点を「気にする」、反省することから更に進んで、理解し納得した結果、方向を転換して、正しい道に進んでいくことを意味します。
 
「悔い改め」は、実は自己反省の結果ですから、自己反省が出来なくなると、悔い改めもできなくなります。
そういう意味では、洗礼を受けているのだから一人前、欠かさず集会を守っているのだから大丈夫、奉仕を続けているのだから心配ない、とは言えないのです。
 
私たちの一生は常に自己点検の連続であるべきであって、傲(おご)ったり油断したりしてはなりません。
だからこそルターは、宗教改革の火蓋を切ることになったいわゆる「九十五カ条の提題」の冒頭で、信者の全生涯が悔い改めの連続であるべきことを強調したのでしょう。
 
一、わたしたちの主である師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」〔マタイ四・一七〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうのである(マルティン・ルター著 緒方純雄訳「贖宥の効力を明らかにするための討論」73pルター著作集第一集 聖文舎)。
 
「心をいれ変え」(32節)ることができたこともまた、憐れみ深い神の恩寵であったことを寸毫も忘れることなく、人生の灯が消える最後の日まで、柔らかな心、感謝の心を保ち続けて、神の言葉、神の意思に従順でありたいと思います。


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