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2015年礼拝説教
2015年礼拝説教 : 2015年8月9日 日曜礼拝説教 「信教の自由を守る日」に寄せて 命と暮らしと自由を守る真の安全保障とは ネヘミヤ記4章6節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-08-09 16:27:36 (740 ヒット)
2015年礼拝説教

15年8月9日 日曜礼拝説教 

「信教の自由を守る日」に寄せて
 
命と暮らしと自由を守る真の安全保障とは
 
ネヘミヤ記4章6節(新約口語訳669p)
 
 
説教のアウトライン
 
1.何としても守らねばならないもの
2.幻想を当てにすることの愚に気付く
3.現状より少しでもましな選択を
 
 
はじめに
 
私たちの教会が所属している教団が八月十五日を「信教の自由を守る日」に定めてから三十三年が経ちました。
 
制定が議決された年の前年、一九八一年の教団総会において、志村教会の長屋勇牧師(当時)が、「わが教団に『信教の自由を守る日』がないのはおかしい。制定を検討すべきではないか」と発言したのがきかっけとなり、その提言を重んじた当時の教団理事会が検討を理事会のブレーンである総務局会議に命じ、結果、翌一九八二年秋の教団総会において「信教の自由を守る日」の制定が決議されました。
 
石原嘉宣総務局長(当時)を中心とした検討会議の中で、「信教の自由を守る日」の導入は当然としても、それをいつの日にするかが論議されました。
 
当時、「信教の自由を守る日」を設けていた他教団のほとんどは、建国記念日の二月十一日を「信教の自由を守る日」に定めていたのですが、会議の中で私が、「天皇がポツダム宣言の受諾を宣言して、事実上の終戦の日となった八月十五日はどうか」と言ったところ、「それは良案だ」ということになり、答申を受けて一九八二年の教団総会に提出された教団理事会提案が承認、可決され、翌年からの実施となったわけです。
 
その数年後、教団から推薦されて委員となっていた日本福音同盟の社会委員会において、「アッセンブリーの『信教の自由を守る日』は八月十五日である」と言ったところ、二月十一日が大半であった他教団の委員たちから、「ウチも八月十五日にすれば良かった」という声があがったものでした。
 
制定以来、私どもの教会では八月十五日に最も近い日曜日の礼拝において、「信教の自由」に関する説教を通し、信教の自由とは何か、信教の自由を守ることがなぜ重要なのかということなどについてお語りし、ご一緒に考え、祈ってまいりました。
 
昨年の八月十日は「何を何から、あるいは誰からどのように守るのか―共同体との正しい関わり方」という説教を準備しておりましたところ、強烈な風雨を伴なう台風十一号が大阪に襲来するとの気象情報により、来会者の身の安全こそが最優先と、礼拝の中止を決定しました。
如何なる理由であれ、日曜礼拝の休会は教会開設以来、初めての措置でした。できればこれが最初で最後ということであって欲しいと思います。
 
さて、本年は戦後七十年という節目の年でもあることから、色々な世論調査が発表されていますが、先月下旬に報じられた共同通信社による、「仮に外国が日本を攻撃してきた際の対応をどうするか」という設問に対する調査結果に正直、度肝を抜かれました。
 
通信社は初めから四つの対応案を用意していたようですが、設問に対し、「武器を取って戦う」が29%、「非暴力で抵抗する」が41%、「逃げる」が16%、「降伏する」が7%で、この、非交戦派が64%という結果を報道したある地方新聞(琉球新報)などは、「安倍政権が目指す『戦争のできる国』を国民は拒否したと見るべきだ」と、この結果を高く評価しておりました。
 
しかし、他国からの武力による攻撃に対し、「非暴力」でどうやって「抵抗する」のか、どこに「逃げる」のか、「降伏」したら無事で済むのか、という疑問には何の答えもありませんでした。
 
家族、隣人をはじめとする同胞が外国人により、自分の目の前で虐殺されたり凌辱されたりしても、言葉で抗議したり、「やめて下さい」と嘆願するということなのでしょうか。
 
戦後二十五年の昭和四十五年(西暦一九七〇年)に自決した三島由紀夫がその数カ月前に、日本の未来を予測して言ったという、「日本はなくなって、その代わりに無機質的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の富裕な抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と言う言葉が、改めてよみがえってきます。
 
共同通信によるこの調査結果に慄然とするのは、自分さえ生き残れば、「日本はなくなって」も構わない、家族や同胞が犠牲になってもやむを得ないと言っているようにも思えることです。
 
ただ不思議に感じるのはこの調査の意図です。もしも外国からの攻撃があれば、真っ先に反撃するのは自衛隊であって一般国民ではありませんし、外国からの攻撃に対応するために締結されているのが日米安全保障条約です。
 
自衛隊、そして日米安保の存在を敢えて無視するこの調査方法は、日本が「非交戦派」が多数であるということを強調したいがための、現実を無視した恣意的な調査としか思えませんが、それが却って、日本が置かれている安全保障上の脆弱性を浮かび上がらせることになってしまったことは、何とも皮肉です。
 
そこで、戦後七十年のこの夏の「信教の自由を守る日」に寄せての説教は、「命と暮らしと自由を守る真の安全保障とは」とすることにしました。
 
 
1.何としても守らねばならないもの
 
 
世の中には無くなって欲しいものもあれば、無くなっても構わないもの、何としても守らねばならないものがあります。
無くなっても構わないどころか無くなって欲しいものの筆頭は、生活保護費の受給直後に受給者が駆け込むパチンコ屋でしょう。韓国は数年前にパチンコを法律で禁止しましたが、日本はなぜか温存されています。また、「百害あって一利なし」の煙草なども無くなってほしいものです。
無くなっても一向に構わないものは、同じ顔ぶれのお笑い芸人が掛け持ちで出演しているテレビの深夜番組です。
 
しかし一方、無くてならぬもの、何が何でも守り切らねばならない大事なものもあります。
私たちが必死になって、何としても守り切らねばならないものは三つです。
 
第一は言うまでも無いことですが、人の命です。
命は一つしかありません。人の命はかけがえのないものです。
政治というものは究極的には国民ひとりひとりの生命とその安全を保障するという目的に向かって営まれるものです。そして政治の課題の一つである国防も、国民の大切な生命を守るためのものです。
 
 守るべき二つ目のものは「暮らし」です。
今週の末には戦後七十年を踏まえての首相談話が発表されるそうですが、「侵略」という文言を入れるか否かで喧しくなっております。確かに満州事変に関しては見方が分かれてはいますが、支那事変(日中戦争)を含む大東亜戦争(太平洋戦争)は、侵略戦争などではなかったという見方が近年、有力です。
 
ただし、何としても侵略戦争を起こした国として、日本を断罪したかった連合国側は、敗戦国に対する戦勝国の報復裁判と揶揄された極東国際軍事裁判(東京裁判)において、「事後法」という国際法では禁止されている法律までも用いながら、日本の指導者を「平和に対する罪」を犯した、いわゆる「A級戦犯」として裁いたのでした。
 
この「平和に対する罪」とは、日本がポツダム宣言を受諾することを決めた昭和二十年八月十日の僅か二日前に、米国、英国、フランス、ソ連の四カ国によって締結された「ロンドン協定」に盛り込まれたものであって、それが「極東国際軍事裁判所条例」の第五条(イ)項にあることから、「A級」戦犯と称されたのです。
 
日本語文の(イ)項は、英語の原文では(a)です。(a)項ですから「『A』級戦犯」とされたのです。これを等級と思い込んでいる人が今でも国内外に大勢いるのは何とも嘆かわしいことです。
 
もっと嘆かわしいのがこの裁判の主宰者たちです。彼らは「事後法」によって被告たちを有罪とし、処刑にまで持ち込みました。
ただし、「裁判所条例」が「事後法」に基ずくものであるからという理由で、被告の無罪を主張した人がいました。インドのパール判事です。
 
「事後法」とはどんなものかと言いいますと、例えば制限速度が百キロの道路が、八十キロ制限に変更されたとします。適用は新しい制限速度が導入された日以降になるのですが、それまで百キロ近くの速度で走っていた者を、過去に遡って違反者として摘発したら、非難轟々ということになる筈です。
 
法の不遡及(ふそきゅう)ということは近代法の常識です。後からつくられた法律で過去の出来事を裁くという、前近代的な法律が堂々と罷り通っている国は半島の国ぐらいです。
 
彼の国では十年前、「親日反民族行為者財産国家帰属に関する特別法」という長ったらしい名称の「事後法」が定められ、これにより、何十年も前の日本統治下の時代に、親が日本に協力したことによって得たとされる財産を、国家に没収されるという人達が出てきました。
 
「東京裁判」の話に戻ります。侵略戦争を行ったとして何が何でも日本を断罪したかった連合国は、「裁判所条例」が「事後法」であることは十分に承知しながら、法律の常識に目を瞑ってまでも、この「事後法」によって被告たちを裁いたのでした。理不尽もいいところです。
 
しかし、この「東京裁判」を主導したGHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーは後になって、自分の過ちに気付きます。
トルーマン大統領によって公職を解任された直後の一九五一(昭和二十六)年五月、米国上院軍事外交合同委員会に召喚されたマッカーサーは、衝撃的な発言をします。
ヒッケンルーパー上院議員の質問に対しての発言です。
 
あなたには日本が八千万になんなんとする厖大な人口を抱える国であって、それらが四つの島にひしめいていることをご理解いただきたい。
そのおよそ半数は農業人口で、あとの半数は工業生産に従事している。
 
…彼らは工場を建設し、労働力を抱えていた。しかしながら、基本的な資材を持っていなかった。
日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もなかった、彼らには綿が無く、羊毛も無く、石油の産出もなく、錫(すず)も無く、ゴムも無く、その他の多くの資源も欠乏している、(しかし)それらの全部はアジア海域に存在していた。
 
(もし連合国による日本への経済封鎖により)これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では一千万人から一千二百万人の失業者が発生するであろうことを日本政府は恐れた。
したがって、彼らが戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった(1951年5月3日 米国議会上院軍事外交合同委員会質疑)。
 
つまり、日本の日米開戦は経済的問題の打開という「安全保障」上の動機からきた自衛のためのものであって、決して侵略戦争ではなかったという意味です。
 
あの時点で日本の「暮らし」つまり経済的状態に、連合国側の目が正確に向いていれば、日米英戦争は起こらず、その結果、真珠湾攻撃も、沖縄の悲劇も、そして広島、長崎への悲惨な原爆投下も、そしてソ連の参戦による理不尽極まりないシベリヤ抑留もなかったということになるわけです。
もちろん、米英を相手にした戦争が、勝つ見込みのない無謀なものであったという責任論はまた別の問題ですが。
 
守らねばならないのは「暮らし」です。そういう意味では「TPP」もまた、「暮らし」を守る安全保障の一環であると共に、タンカーが通るホルムズ海峡や南シナ海などは、我が国の国民の「暮らし」を中心とした安全上の生命線なのです。
 
守るべきものの三つ目が「自由」です。
「非暴力で抵抗する」という対応が非現実的でナンセンスなのは、自由を奪われて国を失い、奴隷的状態とされた地域、民族が日本のすぐ近くにあることに気づこうとしていないからです。
 
たとえばチベットです。独立国であったチベットに中国の人民解放軍が侵入したのは戦後の一九五〇年のことでした。
結果、独立国であったチベットは「チベット自治区」として中国の一部とされ、抵抗した者は虐殺され、多くの寺院、僧院は破壊されました。
チベットは今、宗教の自由や信教の自由どころか、すべての基本的人権、自由が抑圧されて、伝統も文化も言語も破壊され、中国化の途上にあります。
 
そのような不法な国家が日本を攻撃してきた場合、「非暴力で」どうやって「抵抗する」というのでしょうか。目の前で家族が殺され、凌辱されてもただ眺めるだけで見て見ぬ振りをするというのでしょうか。
仮に生物学的な意味での命は保障されたとしても、それで「命が助かった」「良かった、良かった」と喜べるのでしょうか。
 
同国におけるキリスト教会への当局による弾圧もまた、激しくなっている模様です。
先週の火曜日(8月4日)の東京新聞電子版には、「中国、教会弾圧本格化 浙江省で数千破壊、公認も対象」という見出しで、キリスト教会への弾圧の様子が報じられていました。
 
【北京共同】中国でキリスト教の活動が盛んな浙江省(せっこうしょう)で、当局が5月以降に共産党系組織に属さない非公認の教会の弾圧を本格化させたことが関係者の話で4日までに分かった。
同省で既に数千の教会が十字架撤去や破壊などの被害を受けたとの推計を明らかにした。当局は一部で党系組織に属する公認の教会の十字架撤去も開始している(東京新聞電子版 2015年8月4日)。
 
 ひとたび、その支配に服したならば、信仰の自由どころか、言論、表現、報道の自由をはじめとする各種の自由、基本的人権などが蹂躙される危険性があることがお分かりかと思います。
 
知恵の書である箴言を読みたいと思います。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言4章23節 旧約聖書口語訳884)。
 
 ここで言う「心」(23節)とは思考の中心としての思慮、判断力を意味します。「心」が壊れてしまえば、残るものは奴隷化され、支配者の言うがままに行動するだけのロボット同様の体です。
 
「守れ」(同)とありますが、これは「見守れ、見張れ」という意味でもあります。国民の命、暮らし、自由を守ることは、為政者が神から課せられた責務ですが、迫りくる危機に対し、あなた任せであってはならないのです。
 
そういう意味において、共同通信の調査が女性や後期高齢者を対象にしたものであるならば、それはそれで理解できなくもありません。
しかし、それが男性も対象としたものであったとするならば、そして「非暴力で抵抗」、「逃げる」、「降伏する」が調査対象の男性たちの本音の回答であったとするならば、三島由紀夫の未来予測の通り、「日本は終わり」「日本はなくなった」ということになるでしょう。
 
戦後七十年のこの夏、日本人として、そしてキリストを生きるキリスト教徒として、何としても守り抜かなければならないものがあることを、改めて認識したいと思います。
 
 
2.幻想を当てにすることの愚に気付く
 
では、何がかけがえのない国民の生命、暮らし、自由を守ってくれるのでしょうか。
 
ところで戦後七十年の今も、憲法九条が日本を守ってくれている、と本気で信じている人々がいます。
共同通信社が行った世論調査でも、憲法を「このまま存続すべきだ」が60%で、「変えるべきだ」の32%を上回ったとして、「憲法や平和の重要性が再認識されているといえそうだ」と評価していました。
 
この、憲法を変える、変えないという論議は「九条」を指してのことであって、それは改正のことだけでなく、解釈の変更をも意味していると思われます。
確かに多くの憲法学者は、制限されている、いないに関わらず、集団的自衛権の行使容認を違憲としているようです。
 
実際、朝日新聞が六月末に行ったという、209人の憲法学者を対象にした調査では、122人の回答のうち、政府提案の安全保障関連法案を「憲法違反にあたる」とした回答が104人、「憲法違反の可能性がある」が15人と、違憲または違憲の可能性あり、とする者が圧倒的でした。
 
しかし、回答した122人のうち、自衛隊の存在を「憲法違反にあたる」とした者が50人、「憲法違反の可能性がある」とした者が27人、合計で77人、比率でいうと63%もいたという調査結果については、紙の新聞には伏せられていて、デジタル版の方にだけそっと掲載されていたのです。
 
今、一般国民の大多数は自衛隊の存在を合憲としています。
ですから、自衛隊を違憲とするような憲法学者が集団的自衛権を違憲とした場合、かえって彼らの非現実性が浮き彫りにされて、折角の調査の信頼性が崩れてしまいかねません。
 
平和安全法制に反対する新聞社としては、これは一般読者には知らせたくない、しかし、掲載しないとまた隠蔽、操作と非難される、そこで読者の少ないデジタル版にそっと掲載して、「当社は隠してはおりません」と言い逃れようとしたと勘繰られても仕様のない報道の仕方でした。
 
ある意味で、憲法学者が自衛隊を違憲とするのは当然です。
「九条」はどう読んでも戦力の保持も、交戦そのものも否定しているからです。
 
日本国憲法第九条
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない
 
「戦力は、これを保持しない」とありますし、「交戦権はこれを認めない」とある以上、集団的自衛権どころか、専守防衛の根拠となっている個別的自衛権すら、九条に違反していることになりますし、自衛隊もまた、その名称がどうであれ、どこから見ても立派な戦力であり、軍隊そのものですから、保有自体、憲法違反ということになります。
 
厳密に言えば憲法違反である「専守防衛」という軍事戦略が、そして国民の安全を守るために必要不可欠とされる自衛隊の存在が合憲とされるようになったのは、戦後の歩みの中で「憲法解釈の変更」が施されたからでした。
つまり、「解釈改憲」が行われた結果、自衛隊は合憲とされ、専守防衛の概念もまた、合憲とされたのです。
 
ということは、憲法の解釈変更によって自衛隊、そして個別的自衛権を合憲としておきながら、集団的自衛権行使容認は解釈の変更だから違憲、とするのは筋が通らないことになります。
集団的自衛権の行使容認を違憲とするなら、個別的自衛権の、更には自衛隊の存在の違憲性も主張しなければなりません。
 
そういう意味では憲法学者たちの多くが、限定的とはいえ、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法案を違憲とする一方、自衛隊をも違憲とするのは、一貫性があるといえなくもありません。
尤も、彼らにとって重要なのは国家、国民の安全という差し迫った現実の必要よりも、字句の解釈なのかも知れませんが。
 
現政権が進める安全保障法制の論点の一つは、「限定された集団的自衛権の行使」容認にあることは確かです。
そしてこれに関しては反対派も問題です。特に憲法を盾に取って平和安全法制に反対しながら、過去の解釈改憲に目を瞑る野党やマスコミが問題です。
 
とりわけ、多くの憲法学者が違憲としているのだから安保法案は違憲であるとして、憲法学者の判断を錦の御旗にしつつ、自衛隊の存在の合憲、違憲という重要な問題については、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいます。これをご都合主義といいます。
 
中でも問題なのは朝日新聞です。自社の主張に沿うような調査結果のみをペーパーに発表して、都合の悪い結果はデジタル版にそっと載せるという掲載方法は、情報操作を疑われて、社の信用性を落とすだけだと思います。
 
何よりも、違憲、合憲の判断は憲法学者や法制局長官が下すのではなく、三権の一つである最高裁判所が持っている「違憲立法審査権」の下にあるのです。
 
ところで教会は聖書観から、三つに大別できます。
 
一つは「聖書は人間の言葉である」とする立場、二つ目は「聖書は神の言葉である」とする立場、そして三つ目が「聖書は人の言葉であるが、聖霊の働きによって神の言葉になる」という立場です。
 
そして我が国では一つ目と三つ目が進歩派(リベラル)、二つ目が保守派(コンサバティブ)とされています。
 
もともと、日本のリベラルな教会は、明治時代からマルクス主義の影響を受けていて、そのために自由、平等、平和などを謳い文句にした唯物史観の社会主義者、共産主義者との間には親和性があり、戦後は九条の絶対擁護派として、左翼運動と繋がっておりました。
 
ところがその影響が保守派にも浸透してくるようになりました。二十七年前の天皇即位に伴う大嘗祭反対運動がきっかけでした。
この結果、リベラルな教会で構成される日本キリスト教協議会(NCC)の影響が、保守派の教会の連合体である日本福音同盟(JEA)に及ぶようになったのです。
 
こうして今や日本のキリスト教界は護憲一色となり、九条に関しては、神の存在を認めない筈の政党どころか、過激派の極左団体とも区別がつかないような、絶対擁護派になっています。
最近では反原発の主張が、極左のそれと区別がつきません。
 
特に日本のキリスト教会の場合、実に不思議なのは、それが「九条教」と言ってもいいくらい、九条を絶対視するところにあります。「九条があるから日本は戦争に巻き込まれずに済んだ、「九条」が有る限り、未来永劫、平和は保たれる」と信じて疑わないことなのです。
 
しかし、冷静になって見れば、日本が外国の攻撃や侵略を受けなかったのは憲法九条があったからではありませんでした。
曲がりなりにも平和が保たれてきたのは僥倖もありますが、何と言っても米国との間に締結されている日米安全保障条約と、「平和主義」の九条に解釈改憲を施して合憲とした結果生まれた自衛隊とが機能していたからだということは、中学生でもわかることです。
 
日本の教会もそろそろ「九条」という幻想を当てにする愚に気付き、「九条教」という宗教を捨てて、神のみを神とする一神教に戻らなければならないのではないか、現実の事態や、日々に変化する国際環境に目を向ける時期にきているのではないか、という指摘があります。
 
ということは、日本の教会はもう一度、十戒の第一条と第二条を確認する必要があるということでしょうか。
 
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト記20章3、4節前半 102p)。
 
 神の存在を否定する無神論者が政権奪取の手段として、あるいは革命の途上の便宜として、九条を絶対無誤の神のように崇めて錦の御旗にすることは、それなりに理解することはできます。
しかし、唯一の神を崇めるキリスト教会が、九条をキリストの福音と同等視したり、あたかも神であるかのように担ぎ崇めることは、十戒の一条と二条とに抵触する事態なのかも知れません。
 
 
3.現状より少しでもましな選択を
 
では、何が日本国および日本人の命と暮らしと自由を保障してくれるのか、クリスチャンにとって重要な、あらゆる自由の根幹である「信教の自由」を守ってくれるのか、ということですが、結論から言いますと、完璧なものはありません。
 
そこで第一に、政権が国民を守るために導入するとする「平和安全法制」というものを、先入観に捉われることなく、丁寧に読んでみることから始めてはどうか、と思います。
 
「説明が足りない」という声があるようですが、説明が足りないというよりも理解しようとする気持ちがないことが、理解できないという原因かも知れません。頭から悪いものと決めつけてしまっていれば、いくら説明を聞いても理解できないと思います。
 
 伝道者に成り立ての頃、比較宗教学の権威として知られる牧師さんが、教職研修会で語ったことを思い出します。
この先生はこう言われました、「もしも仏教を理解しようと思うならば、仏様の慈悲に感激するほどに身を入れて学ばなければ、理解することは決してできない」と。それは確かに真理です。
 
「平和安全保法制」に反対でも構いません。とにかく、「これで国を守る」「戦争をしないようにするための法案だ」という提案者の声を、提案者の立場に立って聞き、その上で法案全体を読んでみることです。
 
読もうと思えば「平和安全法制」の概要 内閣官房でネット検索すれば、図解入りで出てきます。
 
この法案は二つで構成されています。一つは「平和安全法制整備法」というもので、これは自衛隊法をはじめとする十本の法律から成っています。
もう一つが「国際平和支援法」という新規制定の法律です。
そしてこのうち、「平和安全法制整備法」のうちの五番目の「事態対処法」という法律と「国際平和支援法」が、「日本が外国の戦争に巻き込まれる」のではないかという不安の本となっているようです。
 
しかし、反対を叫ぶ人はどこまで法案の内容を学んでんいるのか、先入観に囚われて勝手に「戦争法案」などと呼んだりしているのではないかという批判もあります。
 
確かに、極めて限定されたものとはいえ、同盟国が攻撃をされた場合には、支援活動を行うという内容が法案には盛り込まれています。
提案者は、「自分が攻撃された時には支援してもらう、しかし、他国が攻撃されても助けられません、では、世界では通用しない」と言います。
 
「法案」の提案者は、現代は一国だけで自国を防衛するのは困難だと言います。そういう意味では集団的自衛権あるいは集団安全保障は「持ちつ持たれつ」の精神を形にしたものかも知れません。
「持ちつ持たれつ」の精神といえば、やはりパウロの勧めでしょう。
 
「すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである」(コリント人への第二の手紙8章14節 新約聖書口語訳286p)。
 
反対者の中には、「世の中の雰囲気がそうだから」とか、「戦争に行かされるから」などと口走ります。
でも、「徴兵制の導入」はあり得ません。徴兵制自体、明確に憲法違反ですし、何よりも高度な軍事力の交戦となる近代戦では、やる気のない兵士は足手まといとなります。
 
根拠のない噂を信じる、主体性のない人がいますが、法案に対する賛否は別として、何が現行よりもましな安全保障政策であるかを研究することは、国民としても、そしてひとりのクリスチャンとしても大事な務めであり、責任でもあります。
 
 また判断の一つの要素として、この法案にどの国が賛同していて、どの国が反対しているのかを見極めることも大事です。国家というものは正義ではなく、自国の国益というエゴイズムで動きます。
 
ですから、日本の安全保障政策が整備されて一番困るのはどの国か、逆にに歓迎している国はどこなのかを知れば、自ずから、法案が良いものか良くないものかがわかってきます。
そのためには、日本を取り巻く環境、特に政治的、軍事的環境についての情報を収集することです。
 
 先月の半ば、ある新聞のコラムが、映画「たそがれ清兵衛」の一場面を引用して、法案についての説明をしておりました。
 
映画では主君から上意討ちの討手を命じられた真田広之演じる井口清兵衛が、当該の家に乗り込んで相手と言葉を交わすうち、田中泯(みん)扮する余吾善衛門と意気投合し、気を許すあまりに思わず、自分が腰に差している大刀は実は竹光であるということを打ち明けてしまいます。
その途端、画面では田中泯の目つきが変わり、刀を抜いて真田広之に切りかかってくるのです。
激闘の末、やっとのことで田中泯を打ち果たした真田広之は、怪我を負いながら、子供と宮沢りえが待つ我が家へと帰っていきます。
 
コラムの趣旨は、日本にとっての軍事的脅威である中国に刀を抜かせないためには、集団的自衛権の行使を可能にする法律が必要なのだ、ということだったと思います。
 
確かに、安全法制の整備の目的の一つは、日本に野心を持つ外国が、「刀を抜く」という武力行使の誘惑にかられないようにすること、つまり戦争の抑止にあるといえます。
防衛力の整備が重要なのは、防衛力の整備と同盟の強化とが、戦争の抑止力となるからであって、それが国際政治の常識であるとする見解は重要なことかも知れません。
 
紀元前六世紀、バビロン捕囚から故国に帰還したユダヤ人が真っ先にしたことは、破壊された神殿の再建でしたが、その次にエルサレムの住民が取り組んだことは、外敵からの攻撃から自らを防衛するための「城壁」の修復工事でした。彼らはこれをペルシャの支援を受けながら実施しました。
 
「こうしてわれわれは城壁を築いたが、石がきはみな相連なって、その高さの半ばにまで達した。民が心をこめて働いたからである」(ネヘミヤ記4章6節 669p)。
 
近隣の民の悪質な妨害を受けながら、城壁は完成します。城壁が完成した段階で、それまで妨害をしていた近隣の民は、ユダヤへの攻撃を断念します。城壁の修復工事完了が抑止力となったからです。
 
「われわれの敵が皆これ(城壁の完成)を聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った」(同6章16節前半)。
 
完璧な安全保障体制などはあり得ません。要は、これまでと同様でよいのか、または、今までよりもましかどうか、今より安全が保障されるようになるかどうかということです。
 
当たり前と思って楽しんできた命と暮らしと自由とを、誰が、そして何が守ってくれるのか、また、誰が損なうのかを見極めて、今より少しでもましな選択をすること、それが、戦後七十年を生きている私たちに、神が委ねて下さった使命ではないでしょうか。
 
思いは色々とあるかと思います。しかし、一つの論調や世の中の雰囲気に流れるのではなく、自分の頭、自分の感性で判断していきたいと思います。迷った時には白紙になっての学び直しが大切です。
 
猛暑の夏の礼拝説教は、「サラッと短く」を目標にしていますが、今週だけは例外で、時間を大分超過してしまったようです。申し訳ありません。その分、来週は「短くサラッと」を心がけたいと思います。


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