ID : Pass :  | register
メインメニュー
最新のメッセージ
わたしたちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です

寝屋川福音キリスト教会
(ファミリーチャーチねや川)
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
http://ag-kansai.com/

for スマートフォン
アクセスカウンタ
今日 : 2
昨日 : 1717
総計 : 5566655666556665566655666
     
2015年礼拝説教
2015年礼拝説教 : 2015年3月15日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条 神による人類救済計画は、イエスの死人のうちからのよみがえりによって完成を見た マタイによる福音書27章62節〜28章15節 
投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-03-15 16:16:05 (638 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年3月15日 日曜礼拝説教 

基本信条としての使徒信条
 
神による人類救済計画は、イエスの死人のうちからの
よみがえりによって完成をみた
 
マタイによる福音書27章62節〜28章15節(新約聖書口語訳49p)
 
 
はじめに
 
テレビやネット、週刊誌などのメディアで、「スキャンダル」という言葉を聞いたり目にしたりすることがあることと思います。
 
この言葉は日本語では一般的に「醜聞(しゅうぶん)」として知られていますが、語源はギリシャ語の「スカンダロン」で、新約聖書では「躓(つまず)き」と訳されています。
 
イエスの時代や使徒の時代にもこの言葉は、「人を悪へと誘(いざな)う」「罪を犯させる」などの、否定的な意味でも使用されていましたが、一方、それが人の理解を超えるがゆえに、結果として信じない、信じられないという不信仰が生み出される際などにも使われておりました。
 
そして、後者の意味において「躓き」となり、人々を最も多く躓かせたのが、実は人であった時のイエスでした。
 
まず、故郷ナザレの人々が、会堂で律法を解き明かすイエスに躓きました。
 
「そして郷里に行き、会堂で人々を教えたところ、彼らは驚いて言った、『この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。…こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか』。こうして人々はイエスにつまずいた」(マタイによる福音書13章54、55節前半、56後半、57節前半 新約聖書口語訳22p)。
 
 常識と言いますのは、人のみが持っている理性と、人あるいは社会がそれまでに味わってきた経験という、二つの要素の組み合わせで形成されたものを言います。
そしてこの一般的な常識の範囲を超えた場合、「常識がない」とか「非常識」だとか「変わっている」などと非難されることになります。
 
イエスの場合、ついこの間まで自分たちが住む町で大工として働いていた者が、いつの間にか律法の教師(ラビ)となって郷里であるナザレの「会堂」(54節)で説教をし、しかもその説教が聴衆をうならせるような見事なものであったことが、彼らの常識のキャパシティ、つまり許容量を遥かに超えてしまうという結果となり、そこでナザレの住民はイエスを受け入れることができず、結果、「人々はイエスにつまずいた」(57節)のでした。
 
 二十一世紀を生きている日本人の多くは、迷信に囚われなくなりつつあるようです。もちろん、そうは言いましても、毎朝のテレビのワイドショーの終わり頃に放送されている「今日の運勢」が一向に消えないのは、一定の需要があるからなのだろうと思います。
 
私自身は運勢なるものは一切信じませんから、自分の星座が何であるのかも知りませんし、興味もありませんからどうでもよいのですが、でも、放送局が公共の電波を使って「運勢云々」とやるのは、放送法に触れないのだろうかという疑問は持っています。
 
 それはさておき、キリスト教の教義にも、二十一世紀を生きる日本人にはいわゆる常識を超えたものとして「躓き」となるであろうものが、少なくとも三つあると思われます。
 
 一つは神が人となった、つまり神の子が人として生まれたという教義です。菅原道真を神として祀る菅原神社のように、人間が神となって崇められるという教えは日本人にはお馴染みですが、その逆の、神が人となったという教えは日本では神話の世界にあるだけですから、無理もないことです。
 
そして二つ目はそれとの関連なのですが、「おとめが身ごもった」という、いわゆる「処女降誕」の教理です。
 
この二つだけでも十分に「躓き」となっているところに、信仰を妨げる三つ目の「躓き」として、死んで確かに墓に葬られた筈のイエス・キリストが、復活をして弟子たちの前に現われ、今も生きている、という教義が説かれていることがあげられます。
 
「神が人となった」ということについてはこのシリーズの四回目(二月一日)で、そして「処女降誕」については五回目(二月八日)で取り上げました。
 
そこで今週は「使徒信条」の十回目として、いわゆる「躓き」の三つ目として挙げたキリストの復活を取り上げます。
タイトルは「神による人類救済計画は、イエスの死人のうちからのよみがえりによって完成を見た」です。
 
 
1.埋葬され陰府に降下したイエスは、父なる神によって「三日目に死人のうちよりよみがえ」らされた(判決)
 
 先週、イエスの死と、それに続く墓への埋葬、死者の世界である陰府への降下、そして陰府からのよみがえりを、陸上競技の三段跳びになぞらえましたが、三段目のジャンプにあたるものがキリストの復活です。
 
「使徒信条」は、主は「死んで(墓に)葬られ、よみ(陰府)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白しますが、福音書によれば、イエスの遺体に香油を塗って、本格的な埋葬をすべく、週の初め、つまり日曜日に墓を訪れた女性の弟子たちに対して、御使いが、イエスが「よみがえられた」と告知したとされています。
 
「この御使(みつか)いは女たちにむかって言った、『恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい』」(28章5、6節)。
 
 聖書は、十字架で死んだイエスが墓からよみがえったと告げ、また代々の教会もそう告白してきました。
キリストの復活は福音の柱の一つであって、昔話や伝説、フィクションなどではなく、代々の教会はこれを歴史的事実として信じ、伝えてきたのでした。
 
キリストがよみがえったということは、単に死体が生き返った、という単純なことではありません。
 
死亡宣告をされた死体が蘇生するということは、法医学が未発達であった時代、あるいはそのような国々、地域では今もときおり、見られるようです。
ご存じのように、日本の法律では埋葬や火葬は、死後二十四時間を経なければしてはならないとありますが、それは、蘇生の可能性や、死因の究明のための時間と考えられています。
 
             墓地、埋葬等に関する法律(昭和二十三年制定)
第3条 埋葬又は火葬は、…死亡または死産後24時間を経過した後でなければ、これを行ってはならない。
 
 イエスのよみがえりはその死後、三日目のことでした。
 
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた」(28章1節)。
 
 埋葬は金曜日の日没直前に慌ただしく行われました(一日目)。
そして日没と共に安息日の土曜日が始まり(二日目)、その二十四時間後の午後六時ごろに日曜日つまり「週の初めの日」(1節)が来て、その夜が明けかけた「明け方」(同)に墓を訪れたマリヤたちが見たものが、イエスの遺体のない空の墓であったというわけです(三日目)。
 
イエスの復活は死後、少なくとも三十七時間ないし三十八時間が経過した二晩あとの午前四時か五時ごろまでに起こったものと思われます。
それはイエスが、仮死状態から生き返ったのではなく、完全に死んでからよみがえったのだということを証しします。
 
 そしてもう一つ、聖書が告げる重要な事実は、イエスがよみがえったのは自力でではなく、父なる神がよみがえらせたということでした。
それは使徒の証言で明らかです。
 
「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」(使徒行伝2章24節前半 182p)。
 
「…しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」(3章15節後半)。
 
 同じことではないか、と思う人もいるかも知れません。でも、同じではないのです。
 
イエスの体は亜麻布という布に包まれて、墓の奥の棚に安置されておりましたし、イエスの意識は死者が住む、神なき、望みなき死者の世界である陰府にありました。しかもイエスは陰府においては、全くの受け身であったのです。
 
そのイエスを陰府から引き上げ、そしてその体を墓の中からよみがえらせたのが父なる神でした。キリストの復活の主体はあくまでも神ご自身でした。
ですから使徒はその説教において二度も、「神はこのイエスを…よみがえらせた」と、証言しているのです。
 
 聖書はこの二つの事実、すなわち、イエスが体をもってよみがえったこと、そして、そのよみがえりは父なる神によってなされたのであるということを、明確にしております。
 
この事実が何を意味するのかということですが、それはイエスによる一連の出来事、とりわけイエスが罪なき生涯を送ったということが、神によって正式に、そして公的に証明されたことを意味するのです。
 
聖書においては、死は「原罪」の報いとしてすべての人に臨むとされています。
 
「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園の度の木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』。」(創世記2章16、17節 旧約聖書口語訳2p)。
 
 しかし、イエスは死の瞬間まで神の戒めを守り抜きました。神の戒めを守るということは罪を犯すまいとしてじっと身を潜めることなどではなく、神を愛し、隣人を心から愛し抜くことを言います。
 
「そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、『先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか』。イエスは言われた『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイによる福音書22章35〜40節)。
 
 「律法(全体)と預言者」(40節)とは聖書のことを意味しました。聖書の基準では、罪を犯すことの反対が、神の思いを第一にすることであり、隣り人をあたかも自分であるかのように受け入れ愛することなのでした。
 
 驚くべきことにこの二つの戒めをイエスは生涯かけて実行することによって、罪を犯さないどころか、罪と対極の愛に満ちた生涯を生きたのでした。
 
 そして厳密な審査の結果、イエスは満点で合格をし、人類史において唯一、罪なき者と認定されたのでした。
 
イエスの陰府滞在時間が三十七時間ないし三十八時間であったということは、ひょっとするとその間に、イエスの生涯が逐一調べられ、その上で、十字架の死については、人類の身代わりとして瑕疵がないかどうかが慎重に審査されたのかも知れません。
勿論、日本が誇るスーパーコンピュータ、「京(けい)」の演算能力を遥かに超える全知全能の神ならば、時間をかけるまでもなく、判断は一瞬のうちに下すことが可能ですが。
 
審査の結果、もしもイエスの人生に罪も染みもないのであれば、陰府がイエスを死者の世界に閉じ込めておく理由がありません。
公正に行われた天の法廷において、父なる神はイエスに対して無罪の判決を下しました。ですからイエスは、正義の神によって「三日目に死人のうちよりよみがえ」らされたのです。
 
 
2.イエスが「死人のうちよりよみがえ」ることができたのは、人類を支配していた法則が変更されたから(完成)
 
イエスに罪がないことが証明されたことには大きな意味があります。
結果、イエス自身、陰府の世界からよみがえることができました。
しかし、それだけであるならば何も、わざわざ人となって地上に降る必要はありませんでした。
イエスが人となったのには大きな目的がありました。贖罪です。
 
イエスの「死人のうちから」の「よみがえ」りは、イエスの死が誤審による単なる死、あるいは個人的な死などではなく、原罪の下にあった人類の身代わりのための死であり、その死が人類の原罪を処分する上で有効な死であったことが、主なる神によって正式に承認されたことを意味するものでした。
 
神がイエスを陰府からよみがえらせることが出来たのは、第一に、イエスに罪がないことが明らかになったからでした。既に申し上げた通りです。
 
しかしもう一つ、神がイエスをよみがえらせることができたのは、イエスの身代わりの死によって、長年にわたって人類を支配してきた法則が廃止され、同時にそれに代って新しい法則が導入されたからでもあったからでした。
 
「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」(ローマ人への手紙8章2節 242p)。
 
 「法則」とは、人がその下に服さざるを得ない規範、あるいは原理のことです。そして、原罪の下にある人類は皆、「罪と死の法則」(2節)すなわち、「罪の法則」の下にあるために、その「罪の法則」が生み出す「死の法則」にも支配される存在でした。
 
しかし、イエスが罪なき人生を、言い換えれば神と人への愛を貫く人生を生きたことによって、少なくともイエス自身はこの「罪と死の法則」からは自由な存在となりました。だからこそ、父なる神はイエスをよみがえらせることができたのでした。
 
問題はイエス以外の人類です。イエス以外は依然として「罪と死との法則」の下におります。だからこそイエスは原罪を背負って「罪と死の法則」の下で、罪びととして十字架につかれたのでした。
そのイエスは十字架上で、人類の代表として処分をされました。その結果、人類が負ってきた「原罪」の処分が完了したのです。
 
金銭貸借を例にとれば、たとい己が身を売り飛ばしたとしても全く返済できないような多額の借金を、もしも誰かが代って支払ってくれたとすれば、「借りたものは償わなければならない」という法則は、その債務者には適用されなくなります。
支払いが完了していますので、その時点で、債務者を縛っていた借用書は無効になっているからです。
 
つまり、イエスの身代わりによって「罪と死の法則」は廃棄されて、新たに「いのちの御霊の法則」(同)が導入されることとなったのです。
 
「いのちの御霊の法則」とは「死の法則」に対する「いのちの法則」のことで、死をもたらす「罪の法則」に対して、神の霊である「御霊の法則」が信じる者を支配するようになります。
そしてこの「いのち」をもたらす「いのちの法則」「御霊の法則」は、陰府にくだっていたイエスに対して、最初に適用されたのでした。
 
つまり、イエスは二重の意味で、すなわち、自身には原罪が生み出す罪の実が一点もなかったことに加えて、「いのちをもたらす御霊の法則」(2節 新共同訳)の適用第一号として、死と陰府の世界から神がよみがえらせたのです。
 
イエスが神によって「三日目に死人のうちよりよみがえ」ったという復活の出来事は、人類を支配していた法則が変更されたこと、言葉を換えれば原罪の贖い、処分が手続きとして完成したことを意味するのです。
 
三段跳びでいえば、キリストの復活が最後のジャンプということになります。キリストは三段目の跳躍であるジャンプを見事に跳び切って、私たちのために永遠の贖いを完成してくださったのでした。
 
 
3.人類を支配してした法則の変更によって、イエスをキリストを信じる者にはよみがえりの体が与えられる(希望)
 
「罪と死の法則」(2節)から「いのちをもたらす御霊の法則(同 新共同訳)への変更が実現したことにより、基本的には誰もがその死後、イエス・キリストと同じように死と陰府の世界から「よみがえ」ることが可能となりました。
 
「基本的には誰もが」と申しましたが、それは無条件ではありません。一つだけ、条件があります。
 
その条件とは、自分自身が生まれながらにして「原罪」を負う罪びとであることを認め、神を無視して生きてきたことを悔い改め、そしてイエスを神の御子、救い主として心と人生に信じ受け入れることです。
そうすれば誰であっても「罪と死の法則」から「いのちをもたらす御霊の法則」の下に生きることができるようになります。
 
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節 135p)。
 
 「神の子となる力」(12節)の「力」とは権利、特権、資格、身分、立場のことです。
 そして、まことに有り難いことに、信じた者は「神の子」という身分を与えられただけでなく、キリストと同じように、いつの日にか、不死の体をもってよみがえることができるようになります。
 
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(コリント人への第一の手紙15章20節 274p)。
 
この「初穂」が何なのかということにつきましては、昨年のイースター礼拝説教の後篇でも触れましたので、ここにその一部を引用したいと思います。
 
「初穂」といいますのは、最初の収穫を意味します。そして、律法では「初穂」は過越祭の安息日の翌日に、幕屋において神に奉献すべきものとされました。
 
「イスラエルの人々に言いなさい。『わたしが与える
地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の束を、祭司のところに携えてこなければならない。彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう』」(レビ記23章10、11節前半 旧約聖書口語訳169p)。
 
復活したキリストは「初穂」(20節)として神に受け入れられたのです。初穂は後に続く収穫のしるしです。
つまり、キリストの復活は後に続く信者の復活のしるしであった、ということなのです。
信者は永遠を体のない霊魂として生きるのではなく、体をもって、但し新しい体を与えられて生きるのです(2014年4月27日「最重要事項として伝えられたもう一つのこと、それはキリストが予告通り、三日目によみがえったこと(後)― 霊魂の不滅か、死者の復活か)。
 
 何でキリスト教でなければならないのかということですが、いかがわしいカルト宗教は別として、日本ではお寺さんやお宮さんが日本人の生活や心の支えとして機能してきたことは確かです。
 
私自身、昨年の六月から十一月までの日曜特別礼拝における「日本人とキリスト教」シリーズを通して、改めて日本の伝統宗教について学び直すことにより、伝統宗教に対して敬服の念を新たにすることができました。
 
 その上で、やはりキリスト教を日本人にお勧めする理由(わけ)は三つあります。
 
 一つは、宇宙の起源です。宇宙がもしも知性を持った偉大な存在の手によるものであるならば、被造物はみな、その偉大な存在を認め、相応の敬意を払わなければなりません。
そして宇宙が神々の合作ならばいざ知らず、唯一の神の創造の産物であるならば、その唯一の神をこそ、創造者として礼拝することが、知性を持った人間の務めであることになります。
そして聖書は、聖書に啓示されているキリストの父なる神こそ、天地万物の創造者であると宣言しているのです。
 
生まれて初めてキリスト教会に行った時、牧師が、「神は実在しています。その神こそが人間を含めて世界を造った神さまです」と言った時、「もしもそういう神がいるならば、日本人であっても、人間ならばその神を信じるのは当然のことではないか」と、素朴に思ったことが、そもそもの出発、原点でもありました。
 
 二つ目は、原罪の処分の方法です。今回の「使徒信条」の説教では、どこまで整理して説明をすることができたかはともかく、人類が負っている「原罪」という罪の根の処分が可能な人、つまり救い主は、罪なきキリスト、人であったキリストだけであるからです。
 
 私たちは一部のいかがわしい新興宗教やカルト宗教を除く諸宗教の、開祖、教祖、預言者と呼ばれる先達たちを評価、尊敬することにおいて吝かではありません。
しかし、イエス・キリストは別格なのです。どこにキリスト以外、罪なき生涯を生き、その身を犠牲にして死に、そして神からよみがえらされたお方がいるでしょうか。
 
そして三つ目、どの宗教も死後の、極楽や天国での安息を約束します。
しかし、霊魂ではなく具体的な体というものを伴なう永遠の生命を保障してくれるのは、キリスト教だけなのです。そしてその保障がキリストの復活です。
 
決して、「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と言って、キリスト教に誘い込もうとしているわけではありません。
ある方は、「手前味噌」と思われるかも知れません。しかし、日本で生まれ、日本で育ち、日本古来の宗教に馴染んできた日本人であるにも関わらず、日本人に対し、日本人としてキリスト教を勧めるのは、以上の理由によるのです。
 
「その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、『…この人(イエス・キリスト)による以外に救いはない。わたしたち(人類)を救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』」(使徒行伝4章8、12節 185p)。


印刷用ページ 

 
     
pagetop