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2015年礼拝説教
2015年礼拝説教 : 2015年1月4日2015年(平成27年)第一回日曜礼拝説教「しかし、勇敢でありなさい」ヨハネによる福音書16章33節 ヨハネの第一の手紙5章4、5節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-01-04 16:11:02 (1074 ヒット)
2015年礼拝説教

15年1月4日 2015年(平成27年)第一回日曜礼拝説教 

「しかし、勇敢でありなさい」
 
ヨハネによる福音書16章33節
ヨハネの第一の手紙5章4、5節 
 
 
はじめ
 
「愛と勇気だけが友達さ」と歌ったのは一昨年の秋に亡くなったやなせたかしの作詞による「アンパンマン」の主題歌ですが、この歌の歌詞のように、何といっても「勇気」は大切なものです。
 
知恵のない向こう見ずの蛮勇などではなく、また、大向こう受けを狙った卑しいパフォーマンスなどでもなく、確かな裏付けと見通し、そして私心とは別の、いわゆる「愛」というものを動機として形成されている「勇気」をこそ、何としても身につけて生きていきたいと私たちは思うのです。
 
とりわけ、国民の暮らしと生命、安全を守る務めにあたる政治家などの指導者に必要なものがこの「勇気」です。
そして昨年の秋から年末にかけて「勇気」を出して行動したのが、昨年末に第九十七代の内閣総理大臣に就任した安倍晋三首相ではないかと考えるようになりました。
 
もちろん、その政治的姿勢、とりわけ安全保障に関する立ち位置の違いやエネルギー政策などについては、それぞれに違った見方があることは承知の上ではあります。
 
「何が」かと言うことですが、共同通信という新聞社で経済部と政治部の記者としてキャリアを積み、退社後、三菱総研というシンクタンク勤務を経て自らシンクタンクを設立し、現在、日本を代表する危機管理のエキスパートとして知られている青山繁晴独立総合研究所社長兼主任研究員によって、昨年十一月二十六日、関西テレビの情報番組で示された今回の解散、総選挙に関する分析が、当時とその後の日本の状況から、正鵠を射たものであったことが明らかになったからです。
 
番組における青山社長の分析の要旨は、「このたびの突然の解散、総選挙は、何としても二〇一五年秋の消費税増税を法律通りに実現させようとする財務省の工作に対抗したものであって、日本の首相で初めて財務省と全面対決を決断したのが安倍首相であった」というものでした。
 
なお、この番組録画は、まだ消されていなければですが、you tubeで「水曜アンカー・青山繁晴のニュースDEズバリ 11月26日」で検索すると視聴することができます。
 
青山繁晴という人は、国内外で培ってきた広範な人脈を基にした正確かつ新鮮な情報収集と、その独自の情報分析能力の高さで、その世界では一頭地を抜いている人物だと思われます。
 
当該の番組におけるこの人の見解をかいつまんで言えば、「財務省の工作は政権党に所属する選挙基盤の弱い議員たち、そして学者・有識者、更にはマスコミにまで及んでいて、それぞれが持つ弱点や立場を衝くことによって増税実施への補完勢力としようとしたもの」であって、「その巧妙な動きをそのまま放置すれば内閣総理大臣と雖も身動きが取れなくなり、経済状況がどうであれ、二〇一五年の秋には法律の通りに十%の増税に踏み切らざるを得なくなる、という状況を打開するためのものであった」という分析でした。
 
もちろん、政治家ですから、先を踏まえての政権の延命、選挙準備が整っていない野党の隙を衝く、などの理由や政治的計算も当然あったこととは思います。
 
しかし一方、選挙の結果によっては、現在確保している安定的議席を失って下野せざるを得ない、あるいは下野しないまでも責任を取って党の総裁を降りなければならない破目になる、というリスクもあった筈です。
 
そういう意味では自らの進退をかけての、日本と日本国民のために下された重い決断であったと評しても差し支えない判断であったと思われますし、強大な権力を持つ財務省と全面対決をする決断を下すには、非常な勇気が要った筈でした。
 
これがもしも腰の定まらない、識見の無い臆病な、また保身を優先する人物であったならば、抵抗することもなく、流れのままに財務省の言いなりになっていたであろうというわけです。
 
そういう意味において、日本国の命運を左右するような首相と財務省の対決は、首相の勇気が勝利を得たことになり、その結果、日本国および日本国民は重大な危機をひとまず回避をしたと言うわけです。
 
さて、二〇一五年、平成二十七年が始まっています。
一月一日の新年礼拝においては「主を待ち望む者が、新たなる力を得る」というタイトルの説教によって、御言葉から「勇気」を得ましたが、本日の第一回日曜礼拝ではこれに続いて、「勇気を出しなさい」「勇敢でありなさい」という主イエスの御言葉を心に刻みつけることにより、これから開かれるであろう未知の世界に向かって、新たなる出発を共にしたいと思います。
 
 
1.   心の平安を掻き乱す患難の予告
 
 たとえばですが、家族で食事をしている時に、父親から突然、「お父さんは今夜でいなくなるが、しばらくしたら代わりのお父さんが家に来てくれる、だから安心していなさい」と言われたとしたら、「そうか、安心だなあ」と思うでしょうか。
やはり、戸惑いもし、心が騒いで不安になることと思います。
 
でも主イエスは過越の食事の席で、そのような意味のことを確かに発言したのです。この食事は「最後の晩餐」として知られていますが、イエスにとっては「最後」であっても、この時の弟子たちにとっては、来年も再来年も続くと思っていた筈の晩餐でした。
 
「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」(ヨハネによる福音書16章16節 新約聖書口語訳168p)。
 
 イエスの言葉の後段にある「しばらくすれば、わたしに会える」(16節)というのは、「イエスの代わりに聖霊が助け主として来てくれる」という意味でしたが、たといそう言われたとしても、頼りにしていたイエスがいなくなってしまうというのであれば、不安は募るばかりであっただろうと思われます。
 
そして、それは当然イエスも知っています。そこで語られたのがイエスの言葉でした。
 
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである」(16章33節 a)。
 
 弟子たちにとり、不安や心配がないという不動の「平安を得る」(33節)にあたって大事なことそれは、師のイエスによれば、苦難、患難との遭遇は必至、という現実を直視することであったのでした。
 
「あなたがたは今までは、私イエスの庇護の下にあった、しかしこれからは私の働きを私に代って担うことになる、当然、私が受けたように、あなたがたも苦難、患難を経験することにもなる」、それがイエスの予告でした。
 
「あなたがたは、この世ではなやみがある」(16章33節 b)。
 
 この「なやみ」(33節)はつらい悩み、患難辛苦を意味する言葉です。「信仰を持ったら悩みが無くなる、安楽な生活が保証される、何もかもがうまく行くようになる」、これは新興宗教の謳い文句です。
 
しかし、イエスはそうは言いませんでした。むしろ、「この世で生きる限り苦労は絶えず、苦難は続く」という現実がイエスから予告をされたのでした。
 
流行っている店の状態を、「客が引きも切らずに押し寄せる」と表現しますが、一難去ってまた一難、悩み、苦しみが引きも切らずに次から次へと押し寄せてくる場合があります。
 しかし、「あなたがたはこの世では悩みがある」(33節)と弟子たちに言ったイエスは、言葉を継ぎます、「しかし」と。イエスはこのあと何を言ったのでしょうか。
 
 
2.キリストが勝利者なのだから、勇敢であれ
 
イエスの口をついで出てきた言葉は、「現実はそうだ、しかし、現実に押しつぶされてはならない、あなたがたは勇敢でありなさい、私は既に世に勝利しているのだから」という励ましでした。
 
「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(16章33節c)。
 
 これを新改訳で読んでみましょう。
 
「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(同 新改訳)。
 
 「勇気を出しなさい」「勇敢でありなさい」とイエスが励ました根拠が何かと言いますと、イエスが既に「世も勝っている」(33節)という事実があるからでした。
 
 ここでいう「世」(同)とは何かということですが、使われている原語は「コスモス」ですが、これは空間的な意味の、世界や宇宙を意味する用語であって、この場合はキリストに敵対している世の中や世間、更には世俗的な勢力や誘惑などを意味します。
 
確かにイエスはこの、「世」(同)を代表するユダヤ当局、具体的には行政と宗教の中心勢力であった最高法院サンヒドリンにより、また当時ユダヤを属領にしていたローマ帝国という国家権力によって処刑されてしまいました。
しかし、イエスが妥協しないで己の信念を貫いて殺されたということこそ、イエスが勝利者であったしるしなのでした。
 
イエスは人類への「愛」のゆえに、最後まで「勇敢」でありました。そのイエスは一度は殺されましたが、しかし死からよみがえって、いえ、神によみがえらされて、今も生きておいでです。
 
そして復活後間もなく、約束の通り、御自身の代わりに聖霊をもう一人の助け主としてこの地上に遣わして下さったのでした。
その約束は最後の晩餐の席で語られました。
 
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう。それは真理の御霊である」(14章16、17節前半)。
 
 「私は数々の誘惑を退け、大いなる患難を克服して勝利をしている、私は勝利者だ、だから私に従ってきたあなたがたも勝利をすることができるのだ、勇敢であれ」と主はこの時、慄く弟子たちに語られたのでした。
 そしてこの励ましの言葉は時代を経て、今日も私たちひとりひとりに投げかけられているのです。
 
 
3.弱き者もキリストを信じる信仰によって勝利する
 
 イエスが勝利者であることはわかった、でも、それが私たちとどう関係するのか、イエスの勝利がどのような仕組みで私たち信者の勝利に結びつくのか、ということですが、そのメカニズムがヨハネの手紙の中にあります。
 お読みしましょう。
 
「なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5章4、5節 380p)。
 
 「世に勝つ者」(5節)、それはたまたま豪胆な性格に生まれついた者のことではありません。そうではなく、卓越した「愛」と「勇気」によって「すでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)救い主「イエスを神の子と信じる者」(第一ヨハネ5:5)のことなのです。
 
 私たちが「イエスを神の子と信じる」(5節)ことができたのは、もう一人の助け主として来られた聖霊の働きのおかげでした。
そして、その聖霊の働きによって与えられたキリストへの「信仰こそ」(4節)、「世に勝たしめた勝利の力」(同)なのです。
 
つまり、聖霊の働きによって、弱い者もイエスの持っておられた強く熱い「信仰」を、自身の「信仰」とすることができるようにされたのでした。
 
もちろん、イエスとではレベルが違います。しかし、「神から生まれた者」(4節)は神を父とし、イエスを長子とする神の子なのです。神の子であれば父と御子の影響を強く受ける筈です。
 
 三世紀の中国で書かれたものに、「朱に交われば赤くなる」という慣用句の語源となったものがあります。傳玄(ふげん)という人の文章です。
 
    墨に近づけば必ず緇(くろ)く、朱に近づけば必ず赤し(傳玄)。
 
黒い墨を使用していれば、手や指はどうしても黒くなってしまいますし、朱色を使用すれば赤く染まってしまいます。
 
そのように「朱」ならぬ「主」に絶えず近づき、「主」と交わっていれば、「主」の信仰に染まり、そして主が持つ麗しい性格の影響を受けてその結果、主が持っておられる「愛」と「勇気」を与えられて、ついには「世に勝つ」(5節)勝利者となることができるのです。
 
その生きた証拠(エビデンス)が初代教会のあの弟子たちでした。彼らは保身のあまりにイエスを見捨てるような臆病者でした。だからこそ、自分たちは失格者だという自責の念にかられ、傷心の中で故郷に帰り、漁師の暮らしに戻ったのでした。
 
彼らは彼らなりにイエスを愛しておりました。イエスを愛していたからこそ、今さら、どの面下げてイエスの弟子を名乗ることができようかと思ったのでしょう。
 
「シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たち一緒にいた時のことである。シモン・ペテロは彼らに『わたしは漁に行くのだ』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って舟に乗った」(21章2、3節前半)。
 
 さらっと読みますと、「気分がくさくさしているから俺、気分転換に漁に行くわ」「そうか、俺たちもそうするか」というように読めるかも知れません。
 
 しかし、それは違います。シモン・ペテロの「わたしは漁に行くのだ」(3節)という言葉は、「俺は失格者だ、もう主の弟子と呼ばれる資格はない、だから元の漁師に戻るぞ」という意味であって、他の弟子たちの「わたしたちも一緒に行こう」(同)もそれに同調した言葉でした。
それらは謂わば、彼らの撤退宣言、敗北宣言であったのです。
 
 彼らは徹底的に打ちのめされ、その心は挫折感と敗北感とで満ちていたのでしょう。しかし、そこに復活の主が現れます。そしてシモン・ペテロに向かい、「今まで通りに弟子として、私の任務を継続しなさい」と言われます。
 
「イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』。」(21章17節)。
 
それは再びの召しへの呼び掛けでした。こうして、シモン・ペテロをはじめとする敗北者たちは再び、キリストの弟子としての道を往くこととなったのでした。
 
ある人が「失敗をしたことのない者、挫折を経験したことのない者は、おおよそものの役には立たない」と言ったそうですが、その通りです。
敗北の苦い味を舐めた者だけが勝利を得ることができるのです。
 
そこで、最後にイエスの励ましの言葉をリビングバイブルで読んで、勝利の主に向かって祈ることといたしましょう。
 
「あなたがたも、心配しないで、安心していなさい。こんなにも、念には念を入れて話してあげたのは、そのためなのですから。確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどあります。しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(16章33節 リビングバイブル)。


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