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2014年礼拝説教
2014年礼拝説教 : 2014年7月27日日曜礼拝説教「詩篇を読むА/世慮斥佞禄禧發茲蠅睚蕕錣靴、蜂の巣の滴りにもまさって甘い」詩篇19篇7〜14節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-07-27 16:14:15 (770 ヒット)
2014年礼拝説教

2014年7月27日 日曜礼拝説教

「詩篇を読む 神の言葉は純金よりも慕わし 
 く、蜂の巣の滴りにもまさって甘い」
 
詩篇19篇7〜14節 旧約聖書口語訳763p
 
 
はじめに
 
航空機事故は悲惨の一語に尽きます
航空機の安全対策は、運航する会社はもとよりのこと、国もまた念には念を入れた対策をとっている筈ですが、それでも事故が起きてしまいます。そして航空機事故の特徴は、ひとたび起きれば乗客、乗員のほとんどが犠牲になってしまうことです。
 
今年に入ってからも世界各地で、痛ましい事故が相次いで起こっています。
三月十八日には乗客、乗員二百三十九名を乗せて北京に向けてクアラルンプールを飛び立ったアレーシア航空のボーイング777が、消息不明となったその後、海上に墜落をしたということでした。事故の原因は不明のままです。
 
七月十七日には同じマレーシア航空のボーイング777が、クアラルンプールに向けてオランダのアムステルダムを飛び立ったあと、ウクライナ・ドネツク州の上空を飛行中に、親ロシア派武装勢力によるとされるミサイル攻撃よって撃墜され、乗客、乗員計二九八名全員が死亡したとされました。
 
そして先週の七月二十三日、台湾の高雄から澎湖島(ほうことう)に向かっていたトランスアジア航空の双発プロペラ機が、台風の影響からか、着陸に失敗して民家に墜落し、乗客、乗員五十八名中、四十八名が死亡したとのことでした。
 
更にその翌日の二十四日、西アフリカのブルキナファソからアルジェリアに向かったアルジェリア航空機が、隣国のマリに墜落した模様で、搭乗している乗客、乗員百十六名は全員死亡したものとされています。
 
この四件で、何と七百名もの人が亡くなってしまいましたが、その背後には突然の悲劇を嘆く数千、数万の人々が存在します。亡くなった方々、そしてその遺族の方々を神が顧みてくださいますように。
 
航空機事故のニュースを聞くと思い出す事故があります。七年前に起きた高知空港における全日空のプロペラ機、ボンバルディア機の胴体着陸事故です。
事故機のボンバルディア機はカナダ製で、事故が多発することで有名なプロペラ機です。
 
七年前の三月のある日のこと、午前十時半頃だったでしょうか、休憩しようとして何気なくテレビをつけたところ、テレビ画面に物々しい雰囲気で映っていたのが空港と、その空港の上空を旋回している飛行機でした。四国の高知空港でした。
 
その日の朝、伊丹から高知空港に向かった全日空のボンバルディア機に、前輪が出ないという故障が発生し、そこで着地の際の衝撃で前輪を出すべく、何度かタッチ・アンド・ゴーを行ったが成功せず、そこで上空を旋回しながら燃料を消費している、とのことでした。
 
同機は最終的に、機長の判断で後輪による胴体着陸を敢行し、この試みが成功したため、乗客、剰員共怪我を負う者もなく、全員無事という最善の結果となったのですが、空港上空の旋回から胴体着陸の決行までがテレビで生中継されていたというわけでした。
 
その後の報道によってわかったことは、機内をパニックから守ったのは、逐次、客室に流されていた機長の言葉だったとのことでした。
 
特に着陸直前の機長の機内放送は、乗客によりますと
「燃料の残りが10分ほどになりました。(そこで)胴体着陸を試みます。もう一度申し上げますが、私は(こうした状況に備えて)多くの訓練をしてきました。安心してください」
というものであったそうで、これで皆がパニックに陥ることもなく、着陸後、全員が無事に機外に出ることができたのだということでした。
 
この見事な緊急着陸操作を行ったのは、今里 仁という名の三十六歳の機長で、その沈着冷静な判断と自信に満ちた言葉、とりわけ、「こういう時のために訓練を重ねてきたから大丈夫」という裏付けのある言葉が、危機の中で乗客の一人一人を落ち着かせることとなったということでした。
 
裏付けのある言葉には力があります。況してや全知にして全能の神のみ言葉はどうでしょうか。
主なる神のみ言葉は人の言葉を超える力ある言葉として私たちを支え、平安と安心へと導きます。 
 
そこで今週の「詩篇を読む」の第七回目では、主なる神のみ言葉の慕わしさ、言葉に言い表すことの出来ない甘やかさについて、第十九篇からご一緒に分かち合いたいと思います。
 
 
1.主なる神のみ言葉は、純金よりも慕わしく、また蜂の巣の滴(したた)りよりも甘い
 
江戸時代、関西では金よりも銀が珍重されたようですが、関東では金の方が価値が高かったようです。その江戸時代、財政難に苦しんだ徳川幕府が取った秘策は、小判の改鋳によって金の含有量を減らし、それによって逼迫した財政を再建しようとしたことでした。
 
その典型例が十七世紀末の小判の改鋳で、慶長小判二枚に灰吹き銀といわれるものを混ぜて、これを三枚の小判、いわゆる元禄小判に改鋳したことでしょう。この詐欺?にも似た政策の結果、一時的ですが幕府の財政は潤うこととなります。しかし、金の含有量が少なくなった新しい小判の価値もまた、下落することとなったそうです。
 
何はともあれ、「金」は昔も今も、そして洋の東西を問わず、人の心を惹きつけるようですが、とりわけ「純金」は人の心が慕う最たるものであるようです。
 
ところで、現代は糖分過多の時代で、糖分の摂取過多による病気が警戒されていますが、江戸時代の日本では糖分はとりわけ貴重であって、その貴重な糖分を含んでいる果物が柿であった、ということを以前、ラジオのNHK第一放送で聞いたことがあります。
 
古代ヘブライの民にとっても、誰もが渇望してやまないものが果物から取れる「蜜」であり、「蜂の巣」からとれる蜂蜜でした。でも、これらにまさって慕わしく、また甘美なものがあると、詩人は告白します。
 
「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(詩篇19篇10節 旧約聖書口語訳763p)。
 
 誰もが欲しがる「金よりも、多くの純金」(10節)すなわち、混じりけの無い金「よりも慕わしく」(同)感じられるもの、また果物の「蜜よりも、蜂の巣」(同)から採取される純粋な蜂蜜よりも甘美に感じられる「これら」(同)のものとは何かと言いますと、それは主なる神のみ口から語られるみ言葉でした。
 
詩人はそれを「主のおきて」あるいは「主のあかし」と呼んでいます。
 
「主のおきては完全であって、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする」(19篇7節)。
 
「主のおきて」(7節)と、ここで「おきて」と訳された言葉は、原語では「トーラー」です。
「トーラー」は狭い意味では「律法」つまり、旧約聖書の最初の五巻である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の「モーセ五書」を指しますが、広い意味での「トーラー」は神の教えのすべてを意味しました。
そして、「主のあかし」(同)も「主のおきて」とほぼ同じく、広い意味での律法を指しました。
 
「金」や「純金」が象徴する社会的成功も、また、「蜜」や蜂蜜が代表する生産的豊かさも、それらは神からの恵みであり、賜物です。
もしもそれらの成功や豊かさを受ける境遇に現在、いるのであれば、それを神からの賜り物として感謝して受け取りもし、また享受もすればよいのです。
 
ただし、それらにまさって「慕わし」(10節)く、また甘美なる賜物があることを忘れてはなりません。それが「主のおきて」(7節)であり「主のあかし」(同)すなわち、主なる神のみ言葉なのです。
 
先々週の礼拝説教(詩篇を読む 神の大庭にいる一日は、他所(よそ)にいる千日にもまさる)で、成功者として贅沢な暮しをすることができる環境にありながらも、敢えてその生涯を清貧に甘んじつつ生きた、韓国・永楽教会の創設者であった故韓景職(ハン・ギョンジク)牧師の話を紹介しましたが、韓牧師にとっては主のみ言葉こそが「金よりも、純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(10節)と、いつも感じられるものでなかったのかと想像するのです。
 
韓牧師が宗教界のノーベル賞とも言われている「テンプルトン賞」を受賞した時、その一億円にもなる賞金を惜しげもなく北朝鮮伝道に献金し、その際、「自分は一分間だけ、億万長者になった」と言って笑ったという逸話を紹介しましたが、その韓牧師が九十八歳で亡くなった時に、自分名義の土地も無ければ一冊の預金通帳もなく、「彼が遺したものは、数着の衣類の他は、四十年余り使用した一人用のベッドとメガネ、そして愛用の聖書だけだったという」(浅見雅一・安 廷苑著「韓国とキリスト教 いかにして国家的宗教″になりえたか」169p 中公新書)との同書の記述を思い返しました。
 
改めて思うのは、「彼が遺したもの」である「愛用の聖書」を「四十年あまり使用したメガネ」で読んで、主なる神のみ言葉を切に「慕わしく」(7節)思い、また「甘い」(同)と感じつつ、やはり「四十年余り使用した一人用のベッド」で、愛する主の身許へと逝ったのであろうという想像であって、一度も会ったことがないにも関わらず、この韓牧師という人をなぜか、ただただ懐かしく想ってしまうのです。
 
 
2.なぜなら主のみ言葉が魂で聞かれるとき、それは人をして神の恵みへと解き放つから
 
ではなぜ、主なる神のみ言葉が、慕わしくまた甘やかであるのでしょうか。
七年前の高知空港におけるボンバルディア機の場合、一歩間違えれば、大惨事になるような機体の故障でした。
 
私もかつて何度か伊丹と高知空港を往復したことがありますが、その時は確か「YS−11」という国産機であったと思います。
このカナダ製のボンバルディア機は「YS−11」と同サイズであるということから、耐用年数の来た「YS−11」の後継機として採用されたようですが、とにかく事故が多い機体なのだそうです。一方、「YS−11」は改造されて今も航空自衛隊で、電子偵察機として使用されているすぐれものです。
 
七年前、事無きを得たのは、技量の確かな機長の判断と、適切な時にアナウンスされた機長の言葉にありました。
機長の言葉は乗客を不安感から解放して、安心感を与えるという効果がありました。
 
主なる神のみ言葉、つまり「主のおきて」(7節)「主のみおしえ」(同 新改訳)には、人を囚われから解き放つという効能があるのです。
 
とりわけ、心に咎めを持っている者にとっては、心の重荷、過去の記憶からの解放は、どうしても必要なものでした。ですから詩人は祈ります、「失敗の過去から私をお救いください」と。
 
「だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください」(19篇12節)。
 
 ここに「あやまち」(12節)、「とが」(同)という言葉が出てきます。「後悔、先に立たず」という言葉がありますが、良心的な人ほど、その時には気付かず、後になってから「自分は良くないことをした」「あれは悪いことだった」と気がつく場合があります。
 
まわりは言うかも知れません、「仕様がない、これから気を付ければいい」と。しかし、ゆるせない者がいます、自分です。良心が敏感な人ほど、自分のかつての「あやまち」(同)、「とが」(同)をゆるすことができません。
 
 胃カメラは日本人が開発したということをご存じでしょうか。東京大学病院の若き外科医であった宇治達郎(うじたつお)がオリンパス光学の技師であった杉浦睦夫と協力して、世界で初めて、胃の中を覗くことに成功し、これによって胃癌による死亡率を劇的に低下させることに成功したのでした。
 
昭和二十五年のことでした。以前、NHKの「プロジェクトX」において、その苦労の様を視聴して、非常な感動を覚えたことを思い起こします。
 
開発から六十数年が経ち、内視鏡も劇的に進歩しています。今はチューブを鼻から入れる胃カメラもあるそうで、口からよりはずっと楽なのだそうです。
もしも胃カメラを「のむ」事態になったならば、鼻からのものをお勧めします。
 
胃カメラは正確には「上部消化管内視鏡」というそうで、食道、胃、十二指の内部を精密に検査して、病変を発見してくれるのですが、「主のおきて」つまり主のみ言葉は、胃カメラがそうするように、人の心を調べて問題箇所を教えてくれると共に、更に問題に対して、対応する知恵も方策も教えてくれるのです。
 
解放という場合、二つの要素があります。一つは「〜からの解放」ということ、そしてもう一つが「〜への解放」です。
 
「また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」(19篇13、14節)。
 
主のみ言葉には知恵があり、癒しがあり、赦しがあり、それが人の魂に届き、また神の言葉として聴かれる時、人は「不安や恐怖から」「神の恵みと平安へ」と解き放たれると共に、ついには「口の言葉と、心の思い」(14節)までもが、神の「前に喜ばれ」(同)る程に整えられるに至るのです。
 
 
3.また、主のみ言葉が慕わしくまた甘やかなのは、それが人の魂を生き返らせてくれるから
 
 意識の底、記憶の陰に隠れていた「あやまち」、知らず知らずに犯していた「とが」から解放された時、人はさらに、魂が生き返るという経験に導かれます。それが七節から九節までの記述です。
 
「主のおきては完全であって、魂を生き返らせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 
「主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼(まなこ)を明らかにする」。
 
「主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい」(7〜9節)。
 
 主の「あかし」(7節)も「さとし」(8節)も「戒め」(同)も、そして「主を恐れる道」(9節)も「さばき」(同)もすべて、「主のおきて」(7節)の働きや効用を意味するものであって、主なる神のみ言葉を愛し、信頼する者をどのように生かすかという角度や側面を強調した言い回しです。
 
 言葉には語る者の気持ちが表れます。七年前の高知空港胴体着陸事故の機長の場合、最後のアナウンスには、「乗客と乗員の生命と安全は何としても自分が守る」というこの機長さんの気持ちと決意が溢れていましたが、主のみ言葉とは何かというならば、人類に対する神さまの決意、個々人に対する神さまの気持ち、つまり、「何としても苦悩している者を救うのだ」という神さまのお気持ちが溢れたものであると言えます。
 
キリスト教の歴史において、中世から近世にかけての偉人がマルティン・ルターなら、古代における偉人はアウグスティヌスでしょう。
アウグスティヌスは四世紀半ば、北アフリカ(現在のアルジェリア)に生まれましたが、放蕩三昧の生活に行き詰まる中、人生の正道に戻るのですが、そのきっかけとなったのがミラノに滞在中、隣家から聞こえてきた「トレ、レゲ、トレ、レゲ」という子供の歌声でした。
 
「レゲ」とはラテン語で「読め」を意味し、そして「トレ」は「取れ」なのだそうです。彼はそれを聞いたとき、「聖書を取り、それを読め」という意味に受け取り、そこで開いた箇所がローマ人への手紙の十三章十三,十四節であったというわけです。
それはアウグスティヌスが三十二歳の時、西暦三八六年のことでした。
 
わたしはそれ(註 聖書)を取り、開き、最初にわたしの目に止まった章句を無言で読みました。
「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を満たすことに心を向けてはならない』。
わたしはこの先を読もうとは思いませんでしたし、またその必要はありませんでした。
というのはこの節を読み終えるやいなや、平和の確かな光のようなものが、わたしの心に注ぎ込まれ、すべての疑いの闇が消え去ってしまったからです(宮谷宣史訳「アウグスティヌス著作集5/1告白録(上)437、8p 教文館)。
 
 まさに主のみ言葉が、この場合はローマ人への手紙の一節が、死んだも同然のアウグスティヌスの「魂を生き返らせ」(7節)てくれたのです。
私たちもいま、改めて開いて読んでみたいと思います。
 
「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ人への手紙13章13、14節 新約聖書口語訳250p)。
 
回心した彼はその後、精進に精進を重ねて当代一流の思想家、神学者、説教者、監督として、時代の人々の信頼を得る者となり、危機に瀕していた古代キリスト教会そのものを「生き返らせ」る偉大な指導者となったのでした。
 
なお、ここでいう「魂」(7節)とは、肉体に対する霊魂というような狭い意味ではありません。それは人の持つ知性、意識、感情、深層心理そして肉体などの、いうなれば人の存在そのものを意味します。
 
主なる神のみ言葉が、金や純金に勝って慕わしいものとなり、蜜や蜂蜜の滴りにも勝って甘やかなものとなるのは、それが人の「魂」、その全存在をを根底から揺さぶり、根本から「生き返らせ」(同)てくれるからなのです。
 
どうぞ、神のみ言葉の解き明しである教会での説教を、優先的に聴くことを心掛けてください。また朝ごとに、あるいは夕ごとに、個人的に神の言葉を読んで、これを魂の糧(かて)としてください。
 
続けていれば、神の御言葉はますます「金よりも、多くの純金よりも慕わしく」(10節)思えるようになり、また「蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘」(同)く感じられるようになるに違いありません。


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