ID : Pass :  | register
メインメニュー
最新のメッセージ
わたしたちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です

寝屋川福音キリスト教会
(ファミリーチャーチねや川)
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
http://ag-kansai.com/

for スマートフォン
アクセスカウンタ
今日 : 7
昨日 : 4747
総計 : 5730557305573055730557305
     
2014年礼拝説教
2014年礼拝説教 : 2014年4月20日イースター復活祭礼拝説教「最重要事項として伝えられたもう一つのこと、それはキリストが予告通り、三日目によみがえったこと(前)―よみがえりは事実なのかそれとも捏造か」コリント人への第一の手紙15章3〜6節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-04-20 16:49:08 (981 ヒット)
2014年礼拝説教

14年4月20日 二〇一四年イースター・復活祭礼拝説教

「最重要事項として伝えられたもう一つのこと、それはキリストが予告通り、三日目によみがえったこと(前)―よみがえりは事実なのか、それとも捏造か

コリント人への第1の手紙15章4節後半〜6節(新約口語訳274p)
 
 
はじめに
 
長い間、行っていなかった造幣局の桜の通り抜けを、妻と共に今年こそは行こうと思っていましたが、結局日程が合わず、来年に、ということになりました。折角大阪に住んでいるのですから、来年こそは造幣局の多種多様な桜花を心行くまで観賞したいものです。
 
ところであれほど華やかに咲き誇っていた満開の桜もいつの間にか散ってしまいましたが、そこで思い出したのが世の中の移り変わりの早さを歌った、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句でした。
 
もっともこの句は元々、江戸中期の俳人、大島蓼太(りょうた)の、気がついたら世間はいつの間にか桜が満開の季節になっていたという意味での「世の中は三日見ぬ間に桜かな」が変化したものだそうですが。助詞の「に」が「の」になるだけで、句の趣がまったく変わってしまうところが、日本語のおもしろさだと思います。
 
ぱっと咲いてぱっと散る桜は、移ろい易い世の中というものを表すと共に、人の命の儚さをも象徴する花として捉えられています。その代表的な歌が、「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という、親鸞上人が作ったとされる和歌でしょう。
 
これは簡単に言えば「花見をするのであれば、咲いている今日のうちにしておいたらどうか、明日になれば散ってしまっているかも知れないから」という、まあ、善は急げ、チャンスは逃すな、という教訓のようでしたが、転じて、明日は今日のように元気で生きているかどうかは誰にもわからないという、人生の無常を歌ったと読むことも可能です。
 
紫式部が千年も前に書いた「源氏物語」には全部で七九五首の和歌があるとのことですが、物語の最初に出てくる和歌は、光源氏の生母の桐壺更衣(きりつぼのこうい)が詠んだもので、それはそれは哀れを誘います。
 
桐壺帝(きりつぼのみかど)の寵愛を受けて光源氏を産んだ更衣でした。しかし、周囲の嫉みやっかみを受け、心労の果てに病を患うこととなり、光源氏を産んだ三年後に亡くなってしまうのですが、作者の紫式部は病が進行する中で死期を感じた彼女に、願わくは死出の旅などではなく、何とかこの世に止まって人生を続けたいという心の叫びを、辞世の歌として詠ませています。
 
かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(源氏物語 第一帖 第一章 第一段
 
人にとって死は、昔も今も忌むべきものでした。死は人生の営みの途中であっても情け容赦もなくピリオドを打たせ、愛する者との別れを否応なく強いるものであるからです。
 
そういう意味において、聖書は無常の世を生きる私たち日本人には何とも信じ難い事柄を告げます。それが何かと言いますと、イエス・キリストは確かに一度は死んだ、しかし、死者の世界からよみがえって今も生きており、しかもキリストを信じる者には永遠の生命を保証してくれるというものでした。
 
信じるか信じないかは人それぞれですが、一般の方々には、それを一笑に付す前に、聖書が何を告げているかということについて、ぜひ、確かめていただきたいと思います。
 
本日はキリストの復活を祝うイースター、復活日ですが、説教は先週の棕櫚の日曜日の説教とセットです。
先週は「最重要事項として伝えられたこと、それはキリストが私たちの罪のために死んだこと」でしたが、今週のイースター礼拝では「最重要事項として伝えられたもう一つのこと、それはキリストが予告通り、三日目によみがえったこと」についてお話ししたいと思います。
 
 
1.キリストは予告通り、死者の中から三日目によみがえった
 
 使徒パウロは書間において、自身がコリントの集会にかつて伝えた最重要事項として、キリストが「わたしたちの罪のために死んだ」という事実を改めて強調しましたが、もう一つの最重要事項として、キリストが聖書の予告通りに、墓に葬られてから三日目に、死者の中からよみがえったということを挙げました。
 
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、…聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現われ、次に十二人に現われたことである」(コリント人への第一の手紙15章3〜5節 新約聖書口語訳274p)。
 
 死んだ筈のキリストが墓からよみがえったということは、俄かには信じられないというのが、多くの日本人の感覚であると思います。どんな偉人も一度死んだのちには、灰になるか骨になるかであって、よみがえるなどということは想定を超えるものであるからです。
 
 今月の五日の中日新聞は、「スリランカ至宝到着 越前町で釈迦の遺骨公開というタイトルで、釈迦の遺骨とされる「真身御舎利(しんみおしゃり)」が福井県の越前町にある寺院で公開されるのに先立って、特別御開帳式典という催しがスリランカ大統領特使である同国国会議長らの出席を受けて挙行されたことを伝えていました。
 
同紙によりますと、「真身御舎利は、二千三百年以上前にスリランカに初めて仏教が伝来した際に一緒に伝わり」「同国最古の寺院」「祭られている」もので、「日本での公開は初めて」だそうです。
 
釈迦の遺骨や遺灰の「仏舎利(ぶっしゃり)」を納めたとされる仏舎利塔はこの寝屋川市にもあり、世界中の「仏舎利」とされるものを集めたら、何百もの釈迦がいたことになるそうですが、スリランカの至宝とされるこの「真身御舎利」はひょっとするとお釈迦さまの本物の遺骨なのかも知れません。
 
釈迦は私にとり、個人的には最も尊敬する歴史上の人物の一人ですが、彼の遺骨があるということは、その後代への影響、感化の大きさは扨措くとしても、お釈迦様という方は既に亡くなっていて、現在は生きてはいないということの証拠です。
 
一方、キリストは死んで葬られましたが、「三日目に」(4節)死者の世界から「よみがえ」(同)り、しかもそれは十二人の使徒たちも目撃をしており(5節)、さらにその後、五百人以上の信徒たちの前に現われたというのです。
 
そしてその目撃者の多くは四半世紀後の現在、つまりパウロがこの書簡を執筆した段階において生存をしているのだから、キリストの復活は誤魔化しようがない事実であるとパウロは言います。
事実、キリストはよみがえったからこそ、今に至るまで遺骨も遺灰もないのです。
 
「そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現われた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している」(15章6節)。
 
 春四月、マスコミが連日のように力を入れて報道していたニュースが「STAP細胞」をめぐる一件でした。
 
英国の科学誌に投稿された論文の一部の画像を、理化学研究所の調査委員会が早々に「改竄(かいざん)」「捏造(ねつぞう)」と断定し、一方、著者側は見易いように手を加えただけであるので「改竄」ではない、また真正な画像は存在しており、単に取り違えただけなので「捏造」ではない、と再調査を理研側に要求しました。
 
ところで「改竄」の「竄(ざん)」という漢字は、穴に逃げ込んだ鼠(ねずみ)を表す字であって、「のがれる」とも読みますが、この「改竄」が事実に変更を加える場合を意味するのに対し、「捏造」は(正しい読み方は「でつぞう」で「ねつぞう」は慣用読みです)「捏(こ)ねる」という言葉から、有りもしないものを事実であるかのようにでっち上げることを意味します。
韓国政府がいう、いわゆる「従軍慰安婦」の強制性なるものや、中国政府が主張する「南京虐殺三十万人」説などはその捏造の代表的な事例です。
 
そういう点では「改竄」よりも「捏造」の方が悪質性が高いともいえますが、もしも「STAP細胞」という万能細胞を作製したということが事実であるならば、有りもしない画像を論文の著者がでっち上げる必要もないわけであって、そういう意味からも、わたしには論文の著者の言い分に理があるように思えます。
また「STAP細胞」の作製に「万能細胞」としての未来があるのであれば、国を挙げてその可能性の実現に向けて力を結集してもらいたいものです。
 
科学論文の正、不正問題も確かに大事なことでしょうが、わたしたち人類にとってさらに重要なことは、「キリストが、…聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえった」(3、4節)というキリスト教会の主張が、果たして「捏造」なのかどうかということです。
 
もしもキリストの復活が歴史的事実ではなく、古代教会の単なる願望や妄想であったり、はたまたユダヤ教会に対抗するために造り出された信仰に過ぎないのであるのならば、つまり「捏造」であるのならば、復活を事実と信じるクリスチャンほど哀れな者、惨めな者はないということになります。
 
「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中でもっともあわれむべき存在となる」(15章19節)。
 
 キリストが復活をしたというキリスト教会の主張が「捏造」なのか、それとも事実であるのかという問題の見極めは、人であるならば誰もが避けて通ることのできない重要な事柄です。
 
キリストの復活というキリスト教会の主張が意図的な「捏造」なのか、事実なのか、それとも単なる思い込みに過ぎないものなのかということについて、真面目な日本人にはぜひ力を尽くして取り組み解明してもらいたいものだと思います。
 
 
2.キリストの復活は、罪の贖いが完成したことの神による証印である
 
では、キリストはなぜ、墓からよみがえったのか、正確に言えばキリストはなぜ死者の中からよみがえることができたのか、ということですが、それこそが先週の棕櫚の日曜日の説教と関連する事柄なのです。
 
先週の受難週説教において、キリストが十字架で死んだのは、「神との和解」「神との平和」という人類救済の最終目的を神自身が成し遂げるためであり、その目的遂行にあたって「罪からの救い」「罪からの解放」という目標が達成されることが必要であった、そしてそのためには、「罪の贖い」「罪の赦し」という手続きの完了が不可欠であったということを確認しました。
 
逆から言えば、つまり、救済の時間的順序から言えば、罪の贖いという手続きが完了したことにより、「神との和解」という神による人類救済の最終目標がキリストによって実現したのです。
 
ただし、それは完璧に行われなければなりません。ミスがあってはなりませんでした。そして、神によるその最終証明がキリストの復活でした。
 
そもそも、罪、すなわち原罪は人をして、永遠の死、言葉を換えれば神との永遠の別離に至らせる呪いともいえます。 
そこで、永遠の別離という恐るべき運命から人類を救うべく、神の御子が人となり、白紙の状態で罪の誘惑を受け、その上で罪の誘惑をことごとく退けて罪のない者と認められ、その結果、人の身代わりとなって死ぬ資格を得たのでした。
 
西暦三十年四月七日、神は人類のすべての罪と罪の罰とを、罪なきイエスに負わせました。十字架の死はまさに贖いの死、人類の罪の償いのための死であり、イエスは原理的には人類すべての罪を身に引き受けて刑死したのでした。
 
このため、キリストは一度は罪の罰としての死を体験して死者の世界に住む者となりましたが、神はキリストの死が人類すべての罪の代償としての価値があると認定しましたので、人類を支配していた「罪と死の法則」は効力を失い、代って「いのちの御霊の法則」が導入されることとなったのです。
 
「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」(ローマ人への手紙8章2節 242p)。
 
 新しい法則が導入された結果、その適用の第一号となったのが死んで墓に葬られたイエス・キリストでした。
ですから、正確にはキリストは「三日目によみがえった」(4節 口語訳)というよりも「三日目によみがえられた」(同 新改訳)のであり、誰によってかと言いますと、神によって、であったのでした。
 
「しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた」(使徒行伝3章15節 184p)。
 
 キリストが復活したという事実は、神による人類救済の最終目的が単なる目的ではなく、現実に達成されたということの、神による認証、神による証明を意味します。
だからこそ、「キリストが、…私たちの罪のために死んだこと」(3節)と、「キリストが、…三日目によみがえったこと」(4節)とは切り離すことのできない不可分の教え、ワンセットの出来ごとなのです。そのことを端的に表現した聖句がローマ人への手紙の一節です。
 
「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ人への手紙4章25節 238p)。
 
 
3.キリストの復活は、生老病死という四苦に対する神の力の発動でもある
 
 では、キリストの復活は死後における永遠の命を保証するだけのものなのか、と言いますと、それだけではありません。
「罪の贖い」によって「神との和解」が成立したということは、信じる者の立場が神の子供という立場になったことを意味します。
 
 ところで、仏教では生老病死(しょうろうびょうし)の四つを「四苦」といいます。つまり、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つですが、この場合の「苦」とは苦しみという意味ではなく、物事が思うようにならないことを言うのだそうです。
 
 人が老いるということは、人が生き物である限り、それは自然の理(ことわり)であると言えます。
しかし、病気はやはり理不尽なものです。とりわけ、不摂生をしたというわけでもなく、真面目に暮らしてきたのに、体の不調を覚えて診察を受けたところ、重い病気と診断されたというような場合、特にその感を強くします。
 
しかし、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神は、キリストを信じる者には、その死後にだけではなく、この世にあってそのよみがえりの力を着せてくださっています。
すなわち、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神は、キリストを信じる者には、その死後にだけでなく、この世にあってもそのよみがえりの力を適用してくださるのです。それがコロサイ人への手紙における言及です。
 
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」(コロサイ人への手紙2章12節 316p)。
 
 「あなたがたは…彼と共によみがえらされたのである」とあります。人がこの地上で生を営む限り、一定の制約を受けているということは事実です。
しかし、キリストを信じる者はその存在自体がキリストと「共によみがえらされた」存在なのだとコロサイ人への手紙の著者は言い切ります。
つまり、新しい生命、永遠の生命は人の死後にではなく、信じた瞬間から始まっているのです。なぜならば信者はキリストと「共によみがえらされ」ているからです。
 
そして、そうであるならば、人間の根源的な宿命ともいうべき「四苦」も、キリストと「共によみがえらせた」お方の力の支配の下にある筈です。
「四苦」の「苦」は単なる苦しみではなく、人が思うようにできないものを意味すると申しました。しかし、人にはできないとしても神に出来ないことはありません。そしてその神の支配の中に守られているのが、キリストにある者たちなのです。
 
しかもそれだけではありません。よくよく観察して見れば、イエスをよみがえらせた神の全能の力は、神が愛してやまないこの人類社会にも豊かに現われているのです。
 
世の中は悪くなっていると悲観的に見る見方もあります。キリスト教会の中にも、この世に見切りをつけて、ひたすら来世に希望をつなぐ教えを強調する教会もあります。
しかし、この世は、そして人間は捨てたものでは有りません。この世の中は、神の憐れみと祝福、とりわけイエスをよみがえらせた神の力によって、改良され、改善されて昔よりもずっと住みやすい世界になってきているのです。
 
神の恵みを受けて、人が住みやすく、そして幸せになった世界、それが戦後七十年を経た日本という国でしょう。日本ほど、良い国はありません。中国からの留学生たちの多くが日本にこのまま止まりたい、故国には帰りたくないと言うのは、日本という国がいかに住みやす国であり、日本人にはいかにいい人が多いかということの証左です。
 
先月、外務省はASEAN(東南アジア諸国連合)七カ国を対象にして行った、「最も信頼できる国はどこか」という世論調査結果を発表しました。
 
結果、「最も信頼できる国」の一位は日本が三十三%、二位が米国の十六%、以下、英国の六%、オーストラリア、中国の五%と続き、ニュージーランド四%、ロシア三%、韓国二%、フランス、インドが一%でした。
特定アジアと言われる大陸の大国と半島の南の国はさかんに、「日本はアジアで孤立をしている」と叫んでいますが、ASEANの人々が百人いればそのうちの三十三人が、最も信頼できる国は日本であると思っているのです。
 
その点、日本を非難をする大国は百人中五人、半島に至っては僅かの二人だけです。
日本はアジアから断トツで信頼をされている国なのです。もちろん現代の日本にも多くの問題はあります。しかし、相対的に見れば、日本ほど恵まれた国は他にないと言ってよいでしょう。それは、神の恵みがこの国に注がれているからであると言えます。
人が住むこの世の中は確実に良くなっているのです。なお調査の詳細は外務省のホームページをごらんください。
 
そして世の中が良くなっているもう一つの証しが、現代における医学、医療、薬剤、医療機器の長足の進歩、発達です。とりわけ、日本が導入した国民皆保険という制度は、確かに国の財政を圧迫もし、消費税率の引き上げという増税政策を実施せざるを得ないという結果を招きました。
しかし、この制度があるからこそ、通常、個人負担は三割、高齢者の場合は一割または二割で、世界最高の医療をいつでも受けることができるという恩恵に与かっているのです。
文句ばかり言う人がいますが、そういう人は一度、海外で生活をしてみたらよいと思います。
 
 キリストを死者の世界からよみがえらせた生ける神の、人に対する憐れみの情と全能の力とは、良心的な人々の思いの中に働いて良き志を生み出し、人類の「四苦」を和らげる発明、発見として現れてきました。特に日本の場合は、誰もが一定の負担で医療を受ける制度を育成してきたのです。
 
「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」というカトリック教会のラジオ放送のスローガンを知る前から、それを身をもって実践した有名、無名の人たちの活動と献身によって、世界は多くの恩恵に与かってきたのでした。
 
 医療が未発達の古代において現われた癒しの奇跡は今日、各種医療の発達と、各種制度の近代化というかたちで現われているといえます。
ですから、私は医師にかかる場合、自分が受ける医療の背後にある神の憐れみに感謝し、そして死人をよみがえらせた神の大いなる力が医師の上に働いてくださるようにと祈って受診するようにしています。それは薬を服用する場合も同様です。
 
 イエスの時代、使徒の時代に現われた奇跡は、かたちをこそ変えながら、今も人への神の慈善のわざとして現われています。
崇めるべきは「わたしたちの罪のために死ん」(3節)でくれたキリスト、そしてキリストを「三日目によみがえ」(4節)らせることによって、人類に希望の門を開いてくださった神です。
 
もう一つの最重要事項、それは確かにキリストがよみがえったという事実にあります。
 
復活祭礼拝の本日は、特に体に不調を感じている方々の、健康の回復を神に祈りたいと思います。
今週、手術を受ける方々がおられます。医療機関が神のしもべとしてミスから守られるよう、完璧な手術が行われますようにと祈りたいとも思います。
 
一つ、お断りをさせていただきます。予告では、本日の礼拝説教では、人の死後はどうなるのか、人は死んだら消滅をしてしまうのか、もしも死後も存在するのであれば、それはどのような状態なのか、ということについて触れる予定でしたが、時間が来てしまいました。そこで、本日の説教の後半は次週、お話ししたいと思います。ご了承ください。


印刷用ページ 

 
     
pagetop