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2014年礼拝説教
2014年礼拝説教 : 2014年3月2日日曜礼拝説教「叶えられる祈りとは 〇と場合によっては執拗に祈ることもまた必要である」ルカによる福音書11章5〜13節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-03-02 16:23:19 (881 ヒット)
2014年礼拝説教

14年3月2日 日曜礼拝説教

「叶えられる祈りとは 時と場合によっては
執拗に祈ることもまた必要である」
  
ルカによる福音書11章5〜13節(新約聖書口語訳106p)
 
 
はじめに
 
先月の二日、「主の祈り」の五回目、「『我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈る」という説教の導入において、「宣教師とライオン」というジョークをご紹介しましたが、そのジョークの元々の落ちは、「祈りは叶えられる」というものでした。
 
つまり、アフリカのサファリでライオンに追いかけられて、切羽詰まった宣教師が祈った、「この畜生に神を恐れることを教えてください」という祈りは確かに叶えられた、だからこそライオンは餌である宣教師を前にして「今日の食事を感謝します」と神に祈ったのだというわけです。ちょっとブラックジョーク気味でしたが。
 
人が祈るのは、願いを神に叶えてもらうためです。もちろん、祈りとは神との会話でもありますから、神様とお喋りをする、コミュニケーションをとるということ自体、祈りの重要な要素です。
 
しかし、ご馳走を楽しむようなゆとりもないどころか、空腹に耐えかねているような場合、味を楽しむとか、何を食べようかという以前に、何でもいい、とにかくそこにある物を口に入れることによって空腹を満たすことが先決となるように、二進も三進も行かなくなって困り果てているというような時の、つまり、まず願いを聞き届けてもらわなければならないという、切羽詰まった状況の中にあるときの祈りの秘訣を教えた譬えが、イエスにより、「主の祈り」に続いて語られました。
 
そこで今週と来週とで、祈りが叶えられるための秘訣を、イエスが語られた譬えから教えられたいともい思います。
 
 
1.願いが叶えられるためには、時には厚かましく執拗に願い続けることも必要である
 
 日本人は淡白です。隣国の常軌を逸したしつこさには、我慢強い日本人も流石に辟易させられていますが、しかし、願いが叶えられるためには、厚かましい程執拗に願い続けるということも時には必要であると、イエスは教えました。
 
マタイによる福音書とルカによる福音書とは、マルコによる福音書を下敷きにしているところが共通していますが、書かれた時期についても、西暦七十年のエルサレム壊滅から世紀末までの間というところも、似ている福音書です。
 
でも、両書の決定的な違いはその読者層にあります。
 
マタイの場合はユダヤ教出身のユダヤ人信者たちが対象者であったのに対し、ルカの場合は異邦人のクリスチャンが主な対象であったようです。
ところが異邦人出身者たちは、人格神である聖書の神に対して、祈り慣れていないためなのか、祈りにおいても顕著な結果が見えてこないと、もう祈ることをやめてしまうという特徴がありました。
 
そこでルカは福音書編集の過程において「主の祈り」のすぐ後に、真夜中になってから友人の許にパンを借りにきた厚かましい人の譬えを持ってくることによって、願いが叶えられるためには、時には厚かましく執拗に願い続けることも必要であると言うことを教えようとしたのでした。
読んでみましょう。
 
「そして彼らに言われた、あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床(とこ)にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう」(ルカによる福音書11章5〜7節 新約聖書口語訳106p)。
 
 この譬え話を理解するためには、古代のパレスチナの諸習慣を理解しておく必要があります。
 
第一に、当時、旅人は冷房の効いた快適な自動車などでなく、徒歩で旅することが常であったため、暑い日中を避けて、日が暮れてから出発をすることが多く、そのため、目的地への到着が真夜中になる、ということがしばしばであったそうです。
 
 オリンピックの東京招致のプレゼンテーションで有名になったのが「お・も・て・な・し」でしたが、イエス時代のユダヤでも「おもてなし」は重要なマナーで、予告もなしに真夜中に着いた「友だち」(6節)であっても、接待するために、彼は「友人」(5節)の家に行って、「友よ、パンを三つ貸してください」(同)と懇願します。
 
 当時の一般庶民の場合、パンは家族のその日の必要な分だけを焼くという習慣から、夜になれば家の中には余分のパンがないのが普通でした。
 
かと言って、疲労困憊の上、遠路、空腹で訪れてきた友人を、空腹のままで寝かせるわけにはいきません。となると、近所に住んでいる友だちのところから、予備のパンを借りるしか手はなかったのです。
 
 しかし、問題は時間帯です。彼は断られてしまいます。当然です。そのあたりの状況を聖書註解者のウィリアム・バークレーが目に見えるように解説しています。
 
東方では、よほどの急用でないかぎり、締まっている戸をたたくことをしない。戸は開かれると、一日中開かれたままになっていた。
しかし、戸が閉ざされているならば、それは家主が邪魔されるのを嫌っている決定的なしるしであった。
 
だが、必要に迫られているこの主人は、躊躇しておれなかった。彼は戸をたたき、さらにたたきつづけた。
 
貧しいパレスチナの家は、たった一つの部屋からできていて、それに小窓が一つついていた。床は、土間の上に、葦といぐさのござを敷いたものだった。
 
部屋は二つの部分に区分されていたが、その仕切りは壁ではなく、段違いによってそれとわかる程度であった。
その三分の二は地面そのもので、あとの三分の一はわずかに高くなっていた。
 
その高くなったところに、木炭の炉が一晩中燃えていて、そのまわりを囲むようにして、家族全員がベッドではなく、寝床を敷いて眠った。
 
大家族だったので、みんなは暖をとるためもあって、互いに体を寄せ合って眠った。
 
一人が起きると、全家族がその被害をこうむる運命にあった(ウィリアム・バークレー著、柳生 望訳「聖書註解シリーズ4 ルカ福音書」ヨルダン社162p」。
 
 しかも、家族それぞれの掛け布団などという上等なものはなく、父親と子供とは父親が日中に着ていた上衣を掛け布団としていたようで、そのため、もしも父親が起きてしまえば寝ていた子供も目を覚ましてしまうことになります。
 
予備のパンがあるにも関わらず、「子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」(7節)と断った背景には、そういう住宅事情、生活背景があったのです。
 
 私たち日本人の感覚では、そこまで言下に言われてしまえばやむを得ないと諦めるところなのですが、譬えに出て来たユダヤ人は違います。彼はそれでもしつこく「パンを貸してくれ」と懇願し続けます。
 
そうこうしているうちに子供も目が覚めてしまったのか、友だちの方が根負けしてパンを提供してくれます。
 
「しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものをだしてくれるであろう」(11章8節)。
 
 友だちがパンを提供してくれたのは「友人だからというのでは」(8節)なく、彼が「しきりに願う」(同)からでした。
 
 この「しきりに願うので」と口語訳が訳した言葉は、
 
「あくまでも頼み続けるなら」(新改訳)、
「しつように頼めば」(新共同訳)、
「求めの切なるにより」(文語訳)、
「しつこくたたき続けるなら、その根気に負けて」(リビングバイブル)
 
と訳されていますが、原語の「アナデイア」は「羞恥心」つまり恥ずかしさを「ア」という否定語で打ち消した言葉で、「恥ずかしがることもなく」「厚かましくも」という意味です。
 
民族性、あるいは国民性からか、外見の美醜には異常に拘って平気で整形を施しながら、最も重要な内面の人間性という部分に関して、恥じらうという文化とは全く無縁の隣国に悩まされているのが我が国ですが、願いが叶えられるためには、時には恥も外聞もなく、含羞という民族古来の美徳をかなぐり捨ててでも、場合によっては相手の迷惑をも顧みずに(私たちの場合、相手は神さまですが)、厚かましくも執拗に願い続けることが必要であることを教えたのが、この譬えでした。
 
 
2.執拗に祈るにあたっては、自らがその必要性について納得していることが不可欠である
 
では、時には、あるいは場合によってはというその「時」はどのような時、「場合」はどのような場合なのでしょうか。
イエスはめったやたらに、とにかくしつこく願い続ければ欲しいものを入手することができると言おうとしたのではありませんでした。
イエスは他者への配慮を優先する社会的常識や礼儀、マナーを誰よりも重視する救い主です。
 
人が時と場合によって執拗に願わざるを得ないような課題であるかどうかの判断の一つは、その必要性の如何にかかっております。
 
つまり、願いを叶えてもらうことが理に適っていることであって、しかもその必要性を願う側が十分に認識をしていること、いうなれば祈り手が納得をしているということが大事です。
 
そしてもう一つが、願いにあたっての動機と目的が如何なるものであるかということです。
 
昨年の前半は「信仰の高嶺を目指して」という主題で、信仰の祖であるアブラハムの歩みを追いましたが、五月十九日の聖霊降臨日において「信仰の祖アブラハムは神の前に独り立って、滅びようとする人々のために執り成しをした」という説教を致しました。
 
彼の甥のロトが移住した低地の町、ソドムとゴモラは経済的には繁栄しつつも、その倫理的腐敗のゆえに滅亡の寸前にありましたが、アブラハムは町の監察に赴こうとする神の前に立って、ロトとロトの家族を救うべく、あたかも弁護士が被告の無罪を立証するかの如き論理を駆使して懇願をしました。
 
「その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、『まことにあなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか』」(創世記18章22、23節 旧約聖書口語訳20p)。
 
 交渉の結果、彼の町に十人の義人がいるならば、審判を猶予するという神の言葉を取りつけます。しかし、その最低の条件をすらクリアすることの出来なかったソドムの町は、地殻変動という災害によって滅亡してしまうのですが、寸前、ロトとロトの二人の娘は神の使いに手を引かれて、命からがら町を脱出して助かります。
 
それは神がアブラハムを覚えていてくれたから、具体的にはアブラハムの必死の祈りを神が誠実に聞いてくれたからでした。
 
「こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された」(19章29節)。
 
 神が恐るべき「滅びの中からロトを救い出された」(29節)のは、ロトが義人であったからでなく、神がただただ甥のロトの救出を望む「アブラハムを覚えて」(同)くれた、彼の執り成しの祈りを聞いてくれたからでした。
 
 つまり、アブラハムが身の程を弁えつつも、それでも敢えて不遜にさえ見えるほど、厚かましいまでに執拗にロトの救いを願ったのは、その願いの合理性について彼自身が納得していたからであり、その願いの動機において不純なものが何一つなかったからでした。
 
 ルカの譬えに戻ります。
深夜になって我が家を訪れた旅人のためにパンの提供を求めた男の場合、「友の答えから、この家には予備のパンがあることがわかった、パンの予備があることがわかった以上、ここで引き下がるわけにはいかない、自分の願いが非常識で厚かましく、彼にとって迷惑この上ない事は十分承知である、しかし、やっとの思いで我が家に辿りついた知人を空腹のまま休ませるわけにもいかない、ここで願いを何としても聞いてもらわなければならない」という思いだったのでしょう。
 
もしもあなたの願いが理に適っていると思うならば、そして検証の結果、その動機がテストに十分に耐えられる純粋性があると確信したならば、与えられるまで求め続けよ、見い出すまで捜し続けよ、開けてもらえるまで叩き続けよと、イエスは励ますのです。
 
「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(11章9、10節)。
 
 自己吟味をしっかりとしつつ、しかし、この願いは何としても叶えてもらいたいと確信したならば、歯を食いしばってでも、答えを得るまで願い求め、祈り続ける者でありたいと思います。
 
 
3.執拗に願い続ける場合、祈りの対象が天の父であるとの認識を持つことが重要である
 
ルカによれば、イエスはこの譬えを、祈りの対象が「天の父」であることをよくよく認識するようにとの励ましで締め括ります。
 
「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚(うお)を求めるのに、魚の代わりにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(11章11〜13節)。
 
 検証の結果、自らの願いの内容が理に適ったものであって、なおかつ、自分自身も納得することができ、動機においても目的においても純粋であるとの確信があれば、一見、厚かましく恥知らずに見えるような祈願であっても執拗に願い続けることは神の思いに適う祈りであると思えるのですが、もう一つ、さらに重要な要素があります。
それはその祈りの対象が公正にして寛大、慈愛と憐れみに富む「天の父」であるとの認識を忘れてはならないということです。
 
 バークレーによりますと、譬えは「類似性と対照性」で解釈をすることが求められているとします(前掲書163p)。
 
そして多くの譬えが類似性、つまり譬えと譬えが示す真理とがよく似ているということで解釈されます。いなくなった羊や失くした銀貨、あるいは家出した息子の譬えなどは、神から離反した人類との類似を強調した譬えの典型例です。
 
しかし、譬えの中には対照性でこそ理解すべきものもあるようで、それがこの譬えであるというわけです。
 
 つまり、この譬えの締めの部分では、不完全な人間の父親とパーフェクトな父なる神とが対照されていて、人間の父親はたとい「悪い者であっても」(13節)つまり不完全な者であったとしても、我が子が求めることに対しては「良い贈り物」(同)つまり最良のものを用意するものである、では、その愛においても真心においてもそして能力においても完全な「天の父」(同)はどうであろうかと問い掛け、当然、あなたがたの「天の父はなおさら、求めてくる者に」(同)最良の賜物を下さる筈だということが強調されています。
 
 なお、最後の最後になって、「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(13節)と、「聖霊」が唐突に出てきますが、並行記事のマタイではこの部分は「良いもの」(マタイによる福音書7章11節)です。そして前後の流れから見れば、「良いもの」の方が自然です。
 恐らくはルカの編集過程において、「良いもの」それは天から教会に送られた聖霊なる神であろうということで、「聖霊」に変わっていったのでしょう。
 
 でも大切なことは、祈りの対象が「悪い者」(13節)ではなく、慈愛に満ちた「天の父」(同)であるという事実です。子供の幸せを願わない親はおりません。況して「天の父」においておや、です。
 
 イエスを主と告白をした者は、実感の有る無しに関わらず、誰が何と言おうと神の子供なのです。
 
「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節 35p)。
 
 最近「イエスは主なり」との告白に導かれた、まだ信仰を持って日の浅い方々、あるいはその反対に、随分昔に信仰告白に導かれ、必ずしも模範的な信仰者ではないという、忸怩たる思いを持ちつつ、しかし、神に願わずにはいられないという状況にある方々には特に読んでいただきたい言葉があります。
 
一世紀末に書かれたとされるヨハネの手紙の一節です。
 
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(ヨハネの第一の手紙3章1節前半 378p)。
 
 神の憐れみによって、イエスを主と告白している「わたしたちは、すでに神の子なの」であり、あなたにとって神はいま、「天の父」なのです。これらの神の言葉に励まされて、祈りの深みへと分け入って行きたいと思います。


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