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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年11月3日十一月日曜特別礼拝説教「十字架の物語Α.リストは今日もあなたを訪れて、心の扉を叩いている」ヨハネによる福音書1章12節 ヨハネの黙示録3章20節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-11-03 16:26:56 (1696 ヒット)
2013年礼拝説教

13年11月3日 十一日曜特別礼拝説教(第六回)

「十字架の物語Α.リストは今日もあなたを訪れて、心の扉を叩いている」
 
ヨハネによる福音書1章12節(新約聖書口語訳135p)
ヨハネの黙示録3章20節(新約聖書口語訳390p)
 
 
はじめに
 
「笑っていいとも」というテレビの長寿番組が、来年の春でついに終了するそうです。「友達の輪」で一世を風靡した番組でしたが、マンネリになって視聴率が下がってきたことが打ち切りの理由のようです。
 
その点、四十七年も続きながら一向に人気が衰えないのが「笑点」です。
その笑点の出演者のひとりである六代目三遊亭円楽(円楽の襲名前は楽太郎でした)の売りが、一つが「腹黒」で、もう一つが「友達がいない」ということなのです。確かに知識をひけらかす、というキャラクターを演じていることもあって、さもありなんと思われますが、実際には弟子もおりますから、多くの友人知己がいることと思います。
 
ところで日本人の生き方や心情の形成に大きな影響を与えたものが「論語」です。論語は孔子と孔子の高弟の問答を、孔子の死後に弟子が編纂をしたものと言われています。それで、いずれも「子曰く」で始まります。
 
論語は二十篇から成っていて、各篇にはタイトルはありませんので、文章の最初の二文字又は三文字を取ってその篇の名称としました。
 
有名なのが第一篇にあたる「学而(がくじ)」の冒頭です。
 
子曰
(子曰く)
  
「学而時習之 不亦説乎
学びて時に之を習う 亦(また)説(よろこ)ばしからずや
 
有朋自遠方来 不亦楽乎
朋(とも)有り遠方より来たる 亦(また)楽しからずや
  
人不知而不慍 不亦君子乎
人知らずして慍(うら)みず 亦(また)君子ならずや
 
この中でも特に日本人に好まれそして口ずさまれているものが二つ目の、「朋(とも)有り遠方より来たる 亦(また)楽しからずや」でしょう。
 
この場合の「朋」は机を並べて同じ先生から薫陶を受けた同門の友人のことで、「その気の措けない友人が遠方から訪れてきてくれるという、何と楽しくもまた愉快であることか、一夜、夜を徹してでも思い出を語り合い、近況を交換し合う、その喜びは何物にも替え難い」という朋友との再会の感動を表現した短文です。
 
このような肝胆相照らす友人を持っている人は幸いですが、しかし、本当に腹の底まで見せても安心、絶対大丈夫、と言える友達がどれほどいるかと問われて、胸を張って「自分にはいる!」と断言することのできる人は意外に多くはないのではないかと思います。
 
しかし、今日、「十字架の物語」の最終回では、本当の友とでも言うべき存在、置かれている状況がいかに変化しようとも決して変節したりすることなく、最後の最後まで頼りにもなる、という真の友人をご紹介したいと思います。
 
 
1.誰でもキリストを信じ受け入れるならば、神の子になるという特権を与えられる
 
 生物学的に言えば、人から生まれたものは人となります。もっともせっかく人として生まれても「あれは犬畜生にも劣る奴だ」と疎んじられるような生き方をするものもあれば、思わず手を合わせて拝みたくなるような「神様のような人」に出会う場合もあります。
 
しかし、畜生以下の卑怯な行為をする者も、そして神のような慈愛深い振る舞いをする者もみな、人であることに違いはありません。
 
先々週の説教で「アンパンマン」の作者であったやなせたかしさんの弟さんが人間魚雷で出撃をして、愛する祖国、故郷のために、また大事な同胞、家族のためにその尊い命を捧げたという話を致しました。
この弟さんは軍神として靖国神社に祀られていることと思います。このような方々に対し、感謝と尊崇の念を示すことは日本人として当然のことであると思います。
 
もっともまだ生存しているにも関わらず、「神様、仏様」と崇められた人がいます。西鉄ライオンズの投手であった鉄腕、故稲尾和久です。
 
稲尾は一九五八年の日本シリーズ対巨人戦において、七戦中、六試合に登板してライオンズを優勝に導いた立役者ですが、前年の一九五七年にはプロ野球記録の二十連勝を達成するなど、鉄腕と呼ばれた投手でした。
これは今年、楽天イーグルズの田中将大が更新するまで、五十六年間の長きにわたって稲尾が保持してきた大記録でした。
 
日本シリーズにおいて稲尾の属するライオンズが三連敗の瀬戸際からジャイアンツに四連勝して優勝した時には、地元の新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが躍ったそうです。
 
実は私の場合、神奈川県で育った者として当然のように巨人を応援しておりました。但し、三戦までは。
しかしながら生まれながらの天邪鬼というか判官贔屓というか、巨人が三連勝した時点で我然、三連敗の西鉄ライオンズの方に気持ちが傾いて、そこに稲尾和久の快刀乱麻を断つが如きピッチングがあって、以来、アンチジャイアンツになってしまいました。
 
因みに野球選手で「神様、仏様」と言われたのは稲尾くらいです。確かに偉大な選手でした。
 
ところで日本には人が亡くなると仏になり、あるいは神となるという宗教土壌がありますが、聖書は何と、罪深い私たち人間が、天地を創造した唯一の神が公認する神の子になれるという道を示してくれています。
 
「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節 新約聖書口語訳135p)。
 
「彼」(12節)とは神の独り子のイエス・キリストのことです。その「彼は」人に対し、人が「神の子となる」となるという「力を与え」ることができるお方です。
 
「力」とは権利、特権、資格、身分を意味します。つまり、キリストは人に対して、「神の子」という特権を与える権威を持っているということなのです。
この場合の「神の子」とは、正確に言いますと「神の養子」を意味します。「神の子」つまり神の実子は一人しかいません。イエス・キリストです。
 
「そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1章14節)。
 
 人が「神の子」という資格を得るには何が必要なのでしょうか。国家試験みたいなものがあるのでしょうか。いいえ、試験はありません。もしも試験があるならば誰も合格することはできません。一人を除いては。そしてその一人が、人となられたイエス・キリストだったのです。
 
 ではどうしたら人は「神の子」になることができるのでしょうか。聖書は言います、「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた」(12節)人には誰であってもこの特権が付与されるというのです。
 
「彼を受け入れ」るということは、それに先だって「その名を信じる」つまり、イエスを神のひとり子、救世主、メシヤ、キリストとして信じるという前提があり、「信じ」たからこそ、「受け入れ」るということが可能となるのです。
 
 誰であってもイエスを「信じ」「受け入れ」るだけで「神の子となる力」,
資格、権利、特権を受けることができる、それが福音、ゴスペルです。 
 
ではなぜ、「神の子となるための」資格審査や検定がいらないのでしょうか。それは審査や検定では誰ひとり、合格することはできなかったからです。
そこで神の御子のイエスが人となり、そして人としてこの難関をパスし、ご自分を信頼して救世主としてその人生と心に迎え入れる者には無条件で神の子とされる特権を与えてくださることとなったのでした。
 
 問題はここです。イエスを信じ受け入れるとは、どういうことなのかということです。
そこで次に、イエスをキリストとして信じ受け入れる仕方、方法を聖書から教えられたいと思います。
 
 
2.愛に溢れたキリストは今日もあなたを訪れて、心の扉を叩いている
 
前回の「十字架の物語」の第五回目において、十字架に架けられたキリストは、死んで墓に葬られましたが三日目に復活し、その後昇天をしたということを確かめました。
 
しかし、イエス・キリストは天の住まいにおいて「ひと仕事終わった、やれやれ」と寛いでいるのかと言いますとそうではありません。
イエスの究極の願いはご自分が命を捨ててまで愛している者一人一人と一緒にいて、最後まで苦楽を共にすることなのです。
 
そこで復活のイエスは私たち一人一人を訪ね求め、それぞれの人生の門口、心の入り口に立ってノックをしてくださっているのです。
 
新約聖書の最後の文書、ヨハネの黙示録を読んでみましょう。
 
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」(ヨハネの黙示録3章20節前半 390p)。
 
 「わたし」(20節)とはイエス・キリスト自身です。「戸」(同)とは各自の人生の扉、心のドアのことです。
 
 天にいる筈のキリストがなぜ、地上にいるのか。理屈っぽい人は疑問に思うかも知れません。神学的に説明するとするならば、復活したイエスは神の立場に戻りました。
神の属性の一つは「遍在(へんざい)」ということです。これは「遍(あまね)く在る」ということですから、遍在であるキリストが人の心の外に立っていても不思議ではありません。
 
 もっと理屈っぽい人は、「キリストの復活後、地上にいるのは三位一体の三位格の『聖霊なる神』ではないのか」と思うかも知れません。その疑問に対しては、「相互内在(そうごないざい)」という神学説でご説明したいと思います。
 
「相互内在」とは父と子と聖霊との間では「相互」に「内在」し合うという関係が可能である、という学説です。つまり父が子におり、子が聖霊に内在しているという論理です。
厳密に言えば人を訪れているのは聖霊なる神です。しかし、キリストはその聖霊に内在しているので、人を訪れているのはキリストである、といっても良いわけです。
 
 話を元に戻します。ロンドン生まれの画家でウイリアム・ホルマン・ハントという人がいました。
ハントは聖書を題材にした沢山の絵を描きましたが、中でも有名な絵が戸を叩くイエスを描いた「世の光」でした。
 
茨で編まれた冠をかぶり、ランプを左手に下げたキリストがドアの外に立ってノックしている絵です。ドアには雑草が絡みついています。
ハントが描いた絵をよくよく見ますと、ドアには外ノブ、つまり取っ手がついていません。外から開けることはできないというドアです。このドアは人の心の扉を表しています。つまり、人の心のドアには、取っ手は内側についているだけで外側にはついていないのです。
 
神の御子であるならばドアを叩き続けるなどというまだるっこしいことをしないで強引に開けてでも入って行けばよいものを、と考える人がいるかもしれません。
しかし、キリストは人の意志を尊重されるお方なのです。家の住人が自分で内側から心のドアを開けるまで、外に立って忍耐しながらドアを叩き続けているのです。
 
クリスチャンとなった方々もかつて長い間、キリストを人生の外、心の外に立たせたままであったことを思い出すかも知れません。
 
そして、まだキリストを受け入れていない方々は、あなたの人生の門口にキリストが訪ねてきて、そして心の扉を叩いているその音にぜひ耳を澄ませていただけたらと思います。
 
聖書は言います、聖書の神は人を、とりわけ希望を失い、愛に傷ついた人の人生と心を訪れてきてくれる神なのです。
愛に溢れたキリストは今日もあなたを訪れて、心の扉を叩いておられます。
 
 
3.キリストを信じ受け入れるとは、心の戸を叩くキリストを心と人生に迎え入れることである
 
 心の戸の外に立って扉を叩くキリストは、戸を叩きながらご自身が訪問をしてきたわけを語ります。
 
「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(3章20節後半)。
 
 ここにキリスト訪問の目的があります。それは「食を共に」するためでした。
 
 新約聖書学者でありギリシャ語の権威でもあったウィリアム・バークレーによりますと、ギリシャ人の食事は、朝や昼は簡単に済ませが、その分、夕食は豪華で、その夕食は、家族は勿論、親しい友人たちと共に寛ぎながら時間をかけて交歓をするのだ、そしてここで使われている「食」の原語は晩餐を指す言葉である、と言っています。
 
 キリスト訪問の目的はただ一つ、それはキリストがあなたの家族となって、あなたの抱えている問題を代りに担い、重荷から解放し、安らぎを与え、共に歩むということなのです。
 
 ある人は、私の心の部屋は散らかり放題に散らかっていて、とてもキリストを迎え入れる状態にはない、と言うかも知れません。
しかし、キリストはすべてをお見通しであって、散らかっていれば一緒に片付けもし、汚れているのであれば私が清掃をしてあげよう、と申し出てくれる友なのです。
 
 それは生前のイエスと少しも変わらぬ取り扱いです。
聖歌の編纂者、中田雨後の訳による青年聖歌103番「イェスは神であるのに」の二節そのままに、です。
 
  2.罪があれば愛もて 赦し咎めだてせず
    病いあれば手を付け 癒しました
    (おりかえし)
    この気高い救い主が 今も生きて我らを救うのです
 
 キリストを迎え入れる資格は自分には無い、私なんか、とたじろぐ必要もありません。
キリストは言います、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」と。
出自も経歴も問われません。民族も人種も関係ありません。キリスト「の声を聞いて戸をあける」人ならば誰であっても、キリストは「その中にはいって」きて、親しく「食を共に」してくれるのです。
 
 もう一度、最初の約束に思いを向けましょう。
 
「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節)。
 
 キリストを「信じ」「受け入れ」るということは、心の扉の外に立っているキリストに向かって、自らの意志で自分の方から心の戸を開き、そして、「私は長い間、あなたを心の外に閉め出していましたが、今日、あなたをお迎えしたいと思います。どうぞ、私の心と人生に入ってきてください」と、心からお願いすることなのです。そうすれば、キリストは喜んであなたの心の中へと入ってきてくださるのです。
 
キリストを心と人生に迎え入れるならば、その人はもはや孤独ではありません。キリストは永遠の朋友として、あなたの人生の隣りを歩いてくださるのです。
「朋(とも)有り 遠方より来たる また楽しからずや」です。キリストは天という遥かなる「遠方」から来たりて、今日もあなたの人生の門口に立ち、心の扉を叩いておられます。どうぞ、心の扉を開いて、キリストを内に迎えてください。
 
ヨハネの黙示録におけるキリストのあなたに対する申し出は、今も有効です。
 
そして、もしもあなたがすでにキリストを主として心の内にお迎えしているのであれば、客間や応接室だけではなく、居間にも、そして誰をも入れたことのない奥座敷にも入ってもらっては如何でしょうか。奥座敷とは心理学でいう深層心理、無意識を意味します。そこは長い間、開かずの間で、人はおろか自分自身も足を踏み入れないままの部屋であったかも知れません。
 
しかし、そこにキリストを迎え入れることによって、人は深い平安を得ることができると思います。なぜならば、キリストは昔と変わらず今も、「凡(すべ)て労する者・重荷を負う者、われ汝(なんじ)らを休ません」(マタイ傳11章28節)と呼び掛けてくれる救世主だからです。


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