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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年9月1日 九月日曜特別礼拝説教(第四回)「十字架の物語ぅぅ┘后Εリストは望みなき罪びとに永遠の生命を与えた救世主であった」ルカによる福音書23章39〜43節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-09-01 16:14:07 (1125 ヒット)
2013年礼拝説教

13年9月1日 九月日曜特別礼拝説教(第四回)

「十字架の物語ぅぅ┘后Εリストは、望みなき罪びとに永遠の生命を与えた救世主であった」
  
ルカによる福音書23章39〜43節(新約聖書口語訳132p)
 
 
はじめに
 
NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」も、ドラマチックに展開して
(ドラマですから当たり前なのですが)、物語もいよいよ佳境に入ってきました。
先週末には天野アキと薬師丸ひろ子のダブル主演映画、「潮騒のメロディ」も完成し、ヒロインによる主題歌の録音も無事に完了して、試写会にまで漕ぎ着けました。もっとも次週は東日本を襲ったあの大震災に故郷の人々が遭遇することになるわけですが…。
 
このドラマのヒロインの天野アキがハートフルというタレント事務所をやめて(というよりも首になって)、母親の小泉今日子が立ち上げた事務所の所属タレントとなって受けた最初の仕事が、松田優作の長男が演じるマネージャーが捜してきた幼児向け教育番組「見つけてこわそう」への出演でした。
 
この幼児番組の中でヒロインは、壺などを落として割ったあとに、「逆回転だあ」と言って、両手を回して巻き戻しのジェスチャーをするのですが、その途端、あーら不思議、粉々に割れた壺が元のかたちに戻る、というわけです。そしてこれが幼児に受けて、彼女は一躍、人気者となります。
 
この、粉々に割れた壺が「逆回転」で元に戻る場面を見ながら、人生も逆回転ができたらどんなに幸せだろうかと思う人もいたと思うのですが、しかし、「覆水、盆に返らず」で、盆から零れ出た水を元に戻すことが出来ないように、人生、逆回転はできないのです。
 
因みに「盆」とは日本でいうお盆のことではなく、料理あるいは手を洗うのに使うボウルのことなのだそうですが。ひっくり返ったボウルから一度零れ出た水を元に戻すことはできない、つまり、人生を巻き戻して元のかたちに返すということは不可能なことなのです。
 
しかし、人生、逆回転つまり巻き戻しはできませんが、出直し、やり直し、再出発は可能なのです。古代のギリシャ人が集う教会に宛てた書簡の中で使徒パウロは、出直しは可能だと宣言します。
 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古い者は過ぎ去った、見よ、すべては新しくなったのである」(コリント人への第二の手紙5章17節 新約聖書口語訳283p)。
 
「キリストにある」とは、キリストに結ばれている、という意味です。では、キリストに結ばれるとはどういうことなのでしょうか。
 
さて、六月から毎月第一日曜日ごとにご紹介しております「十字架の物語」は今月で第四回目ですが、今回は最後まで自分の非を認めずに神を恨み、人を呪って死んで行った死刑囚と、途中で自らの非を悟って悔い改めた死刑囚を対比しながら、キリストの驚くべき恵みについてお語りしたいと思います。
 
 
1.残念なことに、責任を他者に転嫁して自己を義とする者には神の救いはない
 
人の人生、過ぎて行った過去への巻き戻しは出来ませんが、出直しは可能です。でも、十字架に架けられたテロリストの死刑囚は残念なことに、一切の責任を他者に転嫁してひたすらおのれを義なる者とし、正しい者とする感情と思考とに支配されておりました。そしてその姿勢は十字架の上で、隣のイエスへの罵詈罵倒となって示されたのでした。
 
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた」(ルカによる福音書23章39節 新約聖書口語訳132p)。
 
 「犯罪人」(39節)とありますが、ローマ帝国の支配下地域では十字架刑はローマの要人暗殺などのテロや反政府暴動、国家転覆の陰謀等、国家への反逆を試み、あるいは実行した政治犯を対象とした処刑方法でした。ですからイエスも凶悪な政治犯として死刑を宣告されたのでした。
 
しかし、イエスの場合、ユダヤ当局の訴えが根も葉もないものであることをローマ総督ピラトは見抜いていましたので、第一回目の審理では、無罪としています。
 
「群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。そして訴え出て言った、『わたしたちは、この人が、国民を惑わし、貢(みつぎ)をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました』。…そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、『わたしはこの人になんの罪も認めない』」(23章1、2、4節)。
 
ところが事態は一変します。エルサレム神殿を中心とする莫大な宗教的権益を独占するにあたり、邪魔なイエスは何としても抹殺をしたいと考えた大祭司一派及びユダヤ当局と、ローマ皇帝から派遣された総督として管轄地域ユダヤの安寧秩序の保持を第一とするローマ官僚ピラトの利害が一致したため、理不尽にも無実と知りつつピラトは罪なきイエスを十字架刑に処することとしたのでした。
 
では、二人の「犯罪人」はどうかと言いますと、彼らは間違いなくローマに対して「暴動を起こし人殺しをしてつながれていた暴徒」(マルコによる福音書15章7節)たち、つまり凶悪な犯罪者、テロリストであって、死刑判決は正当なものでした。
でも、彼らは自暴自棄になり、おのれのことは棚に上げてイエスを罵っていたのでした。
 
「祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう』。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコによる福音書15章31、32節)。
 
 もっとも一人は途中でイエスを罵倒することをやめるのですが、もう一人は罵倒し続けます(23章39節)。
 
この男には二つの誤解がありました。一つは、キリストである筈のイエスが、なぜ十字架に架けられているのか、という理由に関する誤解です。
 
彼は一方的なキリスト観を持っていました。彼にとり、キリストはあくまでもユダヤ人のために神から遣わされた軍事的、政治的救済者であって、「その救済者メシヤ・キリストが敵であるローマによって処刑されているのはおかしい、あんたは偽メシヤ、偽キリストではないか」という考えです。しかし、キリストが軍事的、政治的救済者、という考えは民族主義的な人々の勝手な思い込みでしかありませんでした。
 
 そしてもう一つの誤解が、「自分は正しい、正義の側に立っている」という思い込みでした。「自分は確かに人殺しはした、けれどもそれは救国のため、そして虐げられている民族のためであるから正しい行為なのだ」、つまり目的が手段を正当化する、という論理の中にいたのです。
 
彼の特徴は罪意識、加害者意識が皆無であったことです。そして、正義のために犠性を払ってきた自分、正しい自分がなぜ処刑をされなければならないのか、民族のために決起した自分を同胞はなぜ見捨てるのか、神はなぜ自分に救済の手を伸ばさないのかという憤怒の感情で一杯となり、その怒りがイエスに対する八つ当たりとなったのでした。
 
残念なことに、このテロリストのように責任を他者や神に転嫁して自らを正しいとする者、つまり自己義認を常とする者には、神の救いはないのです。
 
 
2.有り難いことに、自らの非を潔く認めて悔い改める者には神の救いがある
 
しかし、感謝なことに、自らの非を潔く認めて真摯に悔い改める者には、神の憐れみが注がれます。その代表的な人物がもう一人のテロリストだったのです。
 
彼は十字架上で気付きます。それまでは殉教者の気分であった彼は、このような目に遭っているのは自己責任であるということに気づくのです。そこでイエスを罵り続けているもう一人を窘めます。
 
「もうひとりは、それをたしなめて言った、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」(23章40、41節前半)。
 
 「もうひとりは」(40節)突如、罪意識に目覚めたのでした。そしてイエスを弁護します。「我々と違って、このお方には罪はないのだ」と。
 
「しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(23章41節後半)。
 
 彼はなぜ、そのように言えたのでしょうか。何が彼の自己理解を、そしてイエスに対する見方を変えさせたのでしょうか。
恐らくは、普通であるならば憎んでも余りある敵、呪ってもよい筈の者たちに対するイエスの愛に満ちた執り成しの祈りを聞いたからであったと思います。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(23章34節)。
 
 彼はこのような祈りを聞いたことがありませんでした。そこで彼は悟ったのです。
イエスの祈りの「彼ら」(34節)の中には間違いなく、今現にイエスを罵っている自分たちもいた、自身に向かって悪口雑言を浴びせかける者たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」(34節)と心から祈るこの人が、犯罪者であるわけがない、と。
 
 そして、「やはりこのお方はメシヤ・キリストとして神から送られてきた方に違いない、メシヤ・キリストであるならば神からの権威を授けられている筈だ、自らの過去を省みた時、そこに見えるものは、口では民族の解放、母国の救済を謳いながら、心の中に溢れているものは敵への憎悪と、メシヤの王国が完成した暁にはいいポジションに着きたいという卑しい野心であった、今となってはやり直しが効かない人生であったが、もしも万が一、出直しができるものなら、こんな人生ではなく、もっと別の意義深い人生を送りたいものだった」という思いを込めて言ったのが、イエスへの言葉であったのでした。
 
「そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』」(23章42節)。
 
 二人の犯罪人の明暗を分けたものは何かと言いますと、それは罪意識の有無、にありました。
 
罪には根っこの罪と実としての罪があります。一般的に問題とされるのは行為としての罪、すなわち実としての罪なのですが、根っこがあるから、あるいは幹があるから実がなるのです。そしてこの根っこの罪をキリスト教神学では「原罪」と言います。
 
 最後までイエスを罵っていた犯罪人にはこの原罪意識がありませんでしたが、もう一人の犯罪人が考え方を変えたのは、イエスの祈りを聞き、また祈る姿を見た彼の内部に「原罪意識」が芽生えたからであると思われるのです。
 
 では「原罪」とは何かと言いますと、自己の欲望の充足のために神であれ、他者であれ、利用しようとする姿勢を言います。
 
新潟県佐渡に伝わる民話「鶴の恩返し」あるいは「鶴女房」を題材にして、劇作家の木下順二が昭和二十四年に発表した「夕鶴」について、国際基督教大学教授であった武田清子がその著書「背教者の系譜―キリスト教と日本人」(岩波新書)の中で、「木下順二が日本人への宣教は日本人の中に原罪意識を呼び起こすことから始まる、という考えに基づいて『夕鶴』を書いた」と分析していました。昭和四十八年のことです。
 
 村人にはバカにはされるが、心の優しい与ひょうはある時、田んぼの畦で矢を射られて苦しんでいる鶴を見つけて矢を抜いてあげるのですが、それから間もなく、つうという女性が女房にしてくれと押し掛けてくる、それは実は与ひょうが助けてあげた鶴の化身であった、そしてしばらくは二人の幸せな暮らしが続いたが、つうが織る布、「鶴の千羽織」で金儲けを企む村人に唆されて、金銭欲に囚われはじめた与ひょうの言葉が、つうには理解できなくなってきます。
 
つ  う あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとうに嬉しかったから、あたしはあんたのところにきたのよ。そしてあの布を織ってあげたら、あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは、苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは、そのたびに「おかね」っていうものと取りかえてきたのね。
(少年少女日本文学館木下順二著「夕鶴」165p 株式 会社講談社)
 
与ひょう 布を織れ。すぐ織れ。今度は前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうだ。何百両だでよう。
つ  う (突然非常な驚愕と狼狽)え?え?何ていったの?今。「布を織れ。すぐ織れ。」―それから何ていったの?
与ひょう 何百両でよう。前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうでよう。
つ  う …?(鳥のように首をかしげていぶかしげに与ひょうを見まもる)
与ひょう あのなあ、今度はなあ。前の二枚分も三枚分もの金で。
つ  う (叫ぶ)分からない。あんたのいうことがなんにも分からない。さっきの人たちとおんなじだわ。口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何をいってるんだか…ああ、あんたは、あんたが、とうとうあんたがあの人たちの言葉を、あたしにわからない世界の言葉を話し出した…ああ、どうしよう。どうしよう。
     (前掲書177、178p)
 
 金銭欲に目が眩んで、金銭の虜になった与ひょうには、つうは金を生み出す道具に見えてきたのです。その結果がつうに与ひょうの言葉が理解できなくなったという状態が生じてしまったのでした。
 
これこそが聖書のいう「原罪」であって、「もうひとり」(40節)の犯罪人は、イエスの祈りを聞いて自らが「原罪」に支配されている罪びとであるということを悟ったのでした。
 
 しかし、自らの非、おのれの罪を認めて心の底から悔い改める者、自分に待っているのは地獄の業火でしかないことを覚悟した者には、何とも有り難い事にどんでん返しの思いもかけない救いが神によって与えられるのです。
 
 
3.キリストは、望みなき罪びとに永遠の生命を与えることのできる救世主であった
 
何十年も生きてきて、それまで正しいと信じてきたことが間違っていたことがわかり、自分の本当の姿が見えた、と思った時、それは「時、既に遅し」であって、そこは死を前にした十字架の上だった、それが悔い改めた犯罪人の姿でした。
 
彼の過去には神の救いを求めるだけの理由は見つけられません。またこれから神の救いを得るに値する行為をしようにも、その機会はもはやありません。すべては手遅れでした。
しかし、「『主イェスよ』と呼び奉りて、拒まれし者、世になし」(聖歌545番4節)です。イエスは信じ難い言葉を彼に返します。
 
それは、「私はあなたの真摯なる悔い改めの言葉を聞き、あなたの心情を理解した、あなたはたったいま、一切の罪を洗われて神の子となり、私と共に神の国に入った」という宣言でした。
 
「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」(23章43節)。
 
 「パラダイス」(43節)とはもともとは古いペルシャ語の言葉であって、それは囲いに囲まれた庭園のことで、この時代、それは世の終わりに出現する神の楽園、神の国を意味しました。そして当時のユダヤ教の理解では、律法違反を避けて、ひたすら善行を積んで精進した特別の者だけが入ることのできる領域とされていたのでした。そこは神の民という身分を与えられた者しか入ることができない世界でした。
 しかしイエスは犯罪人に向かい、「あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」と宣言したのです。
 
しかもイエスは「きょう」(同)と言われたのでした。「きょう」とは今、という意味です。つまりイエスは未来に何の希望もない犯罪人に向かい、あなたはたった今、この瞬間、メシヤである私と共に確かに神の住む神の住まい、「パラダイス」に入ったのだと言われたのでした。
それはこの犯罪人にとってはまことに信じ難い宣告でした。しかし、イエスには罪びとの罪をゆるし、罪びとを神の国にいれる権威があったのです。
 
なぜかと言いますと、イエスの十字架刑は、実は人類すべての罪の身代わり、つまり代償の死であったからでした。イエスがキリスト、救い主であるということは、人間の究極的な難問である「原罪」を克服したということなのです。
 
そのため第一に、イエスはその生涯を通じて、「原罪」と対極にある愛を実践し続けることによって、「原罪」に打ち勝たれた最初の人となったのでした。そのしるしが十字架の上で敵のために執り成しの祈りを捧げたという事実です。それはかたちではありません。愛を動機とした心からの祈りでした。
 
しかし、いくらイエスが「原罪」に打ち勝ったからといって、人類が「原罪」の下にいるという事実に変わりはありませんが、実はイエスが罪なき人生を送ったということは、「原罪」の下にある人類の身代わりに罪の罰を受けることでもあったのです。
イエスが十字架に架かった時、聖なる神は私たち人類の実としての個々の罪だけでなく、根っこの罪である原罪そのものをイエスに負わせることによって処分をしてくださったのでした。
 
もちろん、人がこの地上で人として生きている間、つまり今の時点では、人類を支配している「原罪」から直ちに逃れることはできません。
しかし、自らが「原罪」に支配されている存在であるという自覚、すなわち「原罪意識」を持って、神の前に悔い改めの心を持つ者を、神はイエス・キリストのゆえに受け入れて、神の子としてくださるのです。
 
イエス・キリストこそ、望みなき罪びとにまことの救い、永遠の生命を与える救世主となるために、孤独の中で十字架の苦しみを耐え忍ばれたお方だったのです。
 
そして、このイエス・キリストは二十一世紀の今も、私たち日本人のための変わらぬ救世主なのです。


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