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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年8月4日八月日曜特別礼拝(第三回)説教「十字架の物語イエス・キリストは、赦し難い敵のため神の赦しを祈った愛の人であった」ルカによる福音書23章32〜34節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-08-04 16:09:34 (1188 ヒット)
2013年礼拝説教

20138月4日 八月日曜特別礼拝説教(第三回)

「十字架の物語イエス・キリストは、赦し難い敵のため神の赦しを祈った愛の人であった」
 
ルカによる福音書23章32〜34節前半(新約聖書口語訳131p)
 
 
はじめに
 
 紫外線の害が知られるようになりました。紫外線は目からも入ってきて、人体にダメージをもたらしますので、人は日焼けから顔を守るための自己防衛のメカニズムにより、顔にメラニン色素を出すのだそうです。
 そういう意味からも夏の晴れた日には、サングラスが必需品のようです。
 しかし、「色眼鏡で見る」という言葉がありますように、先入観あるいは偏見という色眼鏡は、真理の探究のためには外したいものです。
 
 今月の特別礼拝は「十字架の物語」の三回目です。色眼鏡を外して、十字架のイエス・キリストを凝視してください。
 
 
1.キリストは、劣等感と妬みを動機とした恨みの感情によって十字架へと追いやられた
 
 まさに「夜郎自大」を絵に描いたような国があります。この国の国家イメージのアップ戦略の一環として、大統領の直轄機関として設けられた「国家ブランド委員会」なるものが、その国策事業の一つとして展開した活動、それが韓流ブームといわれるものでした。
 
 日本では大手の広告業界と一部のマスメディアが結託して意図的にブームを主導したため、一時期、日本の社会を席巻したとされましたが、図に乗った彼の国の根も葉もない歴史認識とやらを根拠にした謝罪、賠償要求、そして目に余る反日行動を受けて、穏健な日本人も流石に呆れ果ててブームは冷え切り、それどころか彼の国を厭う嫌韓ムードが着実に広がっています。
 
 韓流という人為的なブームが去って今さらながら感心するのは、百年以上も前に、その本質、正体を見破って「脱亜入欧」を唱えた福沢諭吉の卓見です。流石、一万円札の肖像画になるわけです。
 
昔から指摘されていたことですが、彼の国の人々の意識の根底にあるものは恨(はん)、つまり恨みという感情です。
 
普通、恨みというものは被害者が持つ感情なのですが、いわゆる恨みには、恩義をこそ感じ、感謝すべきであるにも関わらず、逆に恩を仇で返すような逆恨みというものもあり、識者による分析によれば、彼の国が日本に抱く恨みは、まさにこの逆恨みという理不尽な感情に尽きるのだそうです。
 
 つまり、何をやっても敵わないという劣等感が根底にあるために、何をやっても敵わない当の相手を敵視し、あらゆることに後付けでいちゃもんをつけて恨むというわけです。
 
 その点で、同じように日本の統治を経験した台湾は、素直に日本を称賛し、日本に対する憧憬の思いを隠そうとしません。
 
 メディアが報じる彼の国のメディアと国民の日本に対する興奮ぶり、激情の様子を見ていると、箴言の言葉が思い出されます。
 
「穏やかな心は身の命である、しかし、興奮は骨を腐らせる」(箴言14章30節 旧約聖書口語訳897p)。
 
 「穏やかな心は身の命」とは、ストレスのない穏やかな心こそ、健康な日常生活を保つ秘訣である、という意味ですが、一方、「興奮は骨を腐らせる」という害をもたらす、というのです。
 
では「骨を腐らせる」ほどの「興奮」とは何かということですが、これを新改訳は「激しい思い」、新共同訳は「激情」、文語訳では「ねたみ」と訳し、手許の英語訳は「エンヴィ」「ジェラシー」と訳していますが、これらの英語はいずれも「嫉妬」「羨望」を意味します。
  
では原語はどうかと言いますと、旧約聖書に出てくるこの言葉のほとんどは「ねたみ」と訳されていて、「興奮」などと訳されている例は、ここ一カ所だけです。
それに、原語の語根は「赤」ですので、まさに「骨を腐らせる」ほどの「興奮」とは赤い炎のような嫉妬の感情、羨望の心に他なりません。つまり、文語訳と英語訳とが正解であって、「嫉妬は骨を腐らせる」、それがこの句の教訓です。
 
 以前、お隣の「大国」のため、とりわけどう足掻いても外国に移住することはできずにこれからもそこに住まざるを得ない大多数の住民のために祈りの手をあげる必要があることを申し上げましたが(2013年5月19日聖霊降臨日礼拝説教「信仰の祖アブラハムは、神の前に立って滅びんとする人々のために執り成しをした」)、小さな半島に住む人々のため、とりわけ、彼の国の人々が、自分よりも優れた者に異常な嫉妬心を持つという、民族的宿ともいうべき悪弊から解放されて、神から与えられた等身大の自分、あるがままの自身を受け入れる国、国民となれるよう、執り成しの祈りを捧げたいと思うのです。
 
 さて、今から二千年前の西暦三十年四月、ユダヤの宗教界を牛耳っていた大祭司とサンヒドリン議会もまた、どうしても敵わないという劣等感と嫉妬心から来る根拠のない恨みの感情をイエスという人物に向けて、彼を十字架の死へと追いやったのでした。
 
 死刑を宣告したローマ総督ピラトが当初、死刑を回避しようと動いたのも、イエスの処刑を望む大祭司たちの動機が「ねたみ」であることがわかっていたからでした。
 
「それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである」(マルコによる福音書15章10節 79p)。
 
 しかし、ピラトは政治的野心と自己保身から、正義よりもユダヤ当局への迎合を選んで、イエスに死刑を宣告します。こうして無実のイエスは卑しい嫉妬心から来る敵意によって、残酷極まる十字架刑を受ける身とされてしまったのです。
 
「さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれて行った。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた」(ルカによる福音書23章32、33節 新約聖書口語訳131p)。
 
拭い難い劣等感が生み出す妬み、そしてその妬みという感情から生まれた理由のない恨みの感情は、人を人たらしめる理性を破壊し、その結果、物事を正しく見る視力をも失わせるのですが、イエスを死に追いやった大祭司の恨みの遺伝子、妬みのDNAは、恰も現在の隣国に伝えられているかのようです。
 
イエスはこうして劣等感を動機とする恨みの感情により、十字架の無残な死へと追いやられたのでした。
げに恐ろしきは妬みを動機とした理不尽で一方的な恨みです。
 
 
2.キリストは、赦し難い敵の赦しを神に向かって切に願った愛の人であった
 
では、イエスは如何なる気持ちで十字架に架けられたのでしょうか。凡人である我々が想像するには、「イエスはさぞや悔しい気持ちを持ったまま十字架に架けられたのでは」と思うのですが、両の手に太い釘を打たれ、間断のない痛みに苛まれつつもイエスの口から漏れ出た言葉は、「彼らを赦し給え」という、父なる神への執り成しの祈りだったのです。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(23章34節前半)。
 
イエスが口を開きました。「父よ」と。刑場にいた人々はイエスの口から、イエスを助けようとしない神への怨み、あるいは結託して自分を十字架へと追いやった人々への呪い、復讐の言葉が放たれると思ったに違いありません。
 
しかし、固唾を呑んでイエスの口元を見つめていた彼らの耳に聞こえてきたのは、敵を罵しり恨む言葉ではなく、また神に復讐を願う言葉でもありませんでした。彼らが耳にした言葉、それは彼らの想像を超えた言葉、「彼らをおゆるしください」(34節)という赦しと執り成しの言葉だったのでした。
 
 夏です。夏と言えば怪談話です。そして怪談話と言えば四谷怪談ですが、この四谷怪談で有名な台詞が、夫の伊右衛門から毒を飲まされて顔面が爛れた妻お岩の、「魂魄この世に留まりて、怨み晴らさでおくものか」という怨念溢れる言葉です。
 
お岩の身になってみれば、同情を禁じ得ませんし、その言葉にはむべなるかなと思わせられます。ただし、鶴屋南北が書いた戯曲の「東海道四谷怪談」にはこの台詞はなく、あるのは、戸板に打ち付けられて川に流されたお岩の死骸が両眼を見開き、民谷伊右衛門に向かって恨みを告げる場面です。
 
(お岩) 民谷の血筋、伊藤喜兵衛が根葉を枯らしてこの恨み(を晴らしてやるぞ) 鶴屋南北作 郡司正勝校注「東海道四谷怪談」223p 新潮社
 
 「伊藤喜兵衛」とは伊右衛門を娘の婿にするために、邪魔なお岩に毒を盛る段取りをする男で、「根葉」とは子孫のことです。つまり、ここでお岩は両家の末代までも祟って恨みを晴らす、と言っているわけです。
 
イエスもまた、十字架上でお岩のように「怨み晴らさでおくべきか」と呪いの言葉を吐いても不思議ではない状況にありました。
しかし、イエスの口から出た言葉はお岩のそれとは違い、到底赦せないような敵ともいうべき「彼らを赦してやって欲しい」という、父なる神への嘆願の言葉だったのです。
 
 イエスの言う「彼ら」とは誰を指すのかと言いますと、それは、第一には、イエスの圧倒的な声望を妬み憎んで彼を亡き者にしようとした大祭司とその一党であり、第二には、イエスには何の罪もないことを知りながら自己保身のためにイエスに死刑を宣告したローマの高級官僚、総督ピラトでした。
つまり、普通の感覚であるならば憎んでも憎み足りない者たちのために、イエスは罪の赦しを祈ったのでした。
 
また「彼ら」(34節)の中には、イエスの逮捕の際、師であるイエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが含まれていた筈でした。
彼らはみな揃いもそろって、「あなたと共に死なねばならなくなった暁にはご一緒に死ぬ覚悟です」と誓ったその舌の根も乾かないうちに、ユダヤ当局を恐れておのが命惜しさにイエスを置いて逃げ去り、あるいはイエスとの関係を否認して助かろうとした卑怯な弟子たちであったのでした。
 
 しかし、イエスは父なる向かい、復讐ではなく彼らの赦免を切に祈ったのでした。それは、イエスの祈りの後半の言葉、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(同)にイエス自身の思いが見えています。
それは、「彼らは自分自身がわかっていません、ただ、自己保存本能という原始的本能のままに行動をしているのです、ですから、彼らには彼らが自らの非を悟って悔い改め、本心に立ち返る機会を与えていただきたいのです、何としてもそれまでは彼らを断罪しないでください」と意味なのです。
 
 多くの学説は、イエスは神の子だから寛容な心で敵を赦す祈りをすることができたのだ、と主張します。しかし、そうではありません。イエスはあくまでも一人の人として、激しい痛みに耐えながら祈ったのです。
なぜ、このような祈りが出来たのか、あるいはできるのかと言いますと、それはイエスが文字通りの「愛の人」であったからです。
 
話しは変わりますが、「罪とは何か」という問いに対しては「法律に違反すること」という答えが返ってくると思います。そうではありません。「罪とは愛さないこと」なのです。
 
 いつも例にあげますが、「罪とは何か」ということがわかったのは、そして「自分が罪びとである」という自覚を持ったのは、「もしも目で人を殺すことができるならば、街路は死人で満ちるであろう」という言葉と出会った時でした。
 
目で人を殺す、つまり心の中で人の存在を抹殺すること、簡単に言えば「あんな奴、いなくなればいいのに」と思い、そのような目で人を見ること自体、実は人を殺しているのだ、ということだということがわかった時、いったい、これまでに自分は何人の人を殺してきたことか、と思ったものでした。
 
この基準で量れば、時間、空間を超えて罪のない人などは一人もいない筈です、ただし、ただ一人を除いては。
 
 そしてそのただ一人の稀有の人が、人なるイエス・キリストであったのです。つまり、イエスは、イエスが無罪であることを知っていながら罪なき自分を十字架に架け、あるいは見殺しにしている者たちのために、怨みもせず、怒りもせずにむしろ、彼らの罪からの解放を願って、悔い改めの機会を得るまで、とにかく彼らを断罪しないでほしいと神に願ったのでした。
 
罪の反対概念は正義ではありません。罪の反対概念は愛です。そういう意味において、十字架に架けられたイエスこそ、類い稀なる「愛の人」だったのです。 
聖人君子と称えられる人は、古今東西、数多くいます。私たちはそういう人々を尊敬します。
しかし、イエスのような人は他にいません。イエスこそ身をもって、愛を具現化した唯一の人だったのでした。
 
 
3.キリストは今も、神に敵対する者たちをそれでもの愛で赦す救世主である
 
このあと、イエス・キリストは十字架の上で息絶えます。では、イエスは偉大な過去の聖人の一人となってしまったのでしょうか。いいえ、違います。イエスは、一度は亡くなりましたが死者の世界からよみがえり、永遠を生きる存在となりました。
 
 今現在、イエスは目にこそ見ることはできませんが、現に存在しており、かつての時と同じように、ご自分に敵対する者たちのために、神に赦しを祈っているのです。
 
 キリスト教の教え、あるいは神学説は多様です。そして一つの特徴は学説には主唱者の性格が反映されるということです。
たとえば、寛容な性格の人は神の赦しと憐れみを打ち出し、狭量な人や正義感の強い人は神の怒りや審判を強調しがちです。
 
十八世紀の半ば、北米大陸で信仰復興運動が起こりましたが、その立役者の一人がジョナサン・エドワーズという巡回説教者でした。
彼の説教の特徴はひたすら神の怒りを強調するところにあり、最も有名なのが「怒れる神の御手の中にある罪人」で、キリストを受け入れていない罪人は怒れる神の手の中にあって、回心しなければ地獄に落ちて未来永劫苦しみ続けるという神の怒りを強調した説教だったのでした。
 
そのため、聴衆は目の前に描き出される地獄の様相に、ある者は泣き叫んで椅子から転げ落ちるという阿鼻叫喚状態もしばしばであったということですが、これは、当時の極端なカルヴィニズムという神学説が、「神は救われる者と地獄に落ちる者とを予め定めている、つまり死後の行き先を予定している」という説であることから、悔い改めている様子をここで見せれば、神はあるいはその決定を思い直してくれるかも知れない、と期待した者が泣き叫んでヒステリー状態になったということだったのです。
 
その神の怒りを強調した説教からは、神の愛もイエスの赦しも窺うことはできませんが、回心者が多く出たことは事実であり、それをもって成功という者もいます。
 
しかし、これはあくまでも想像ですが、その時、もしもイエスがその天幕集会でこの説教を聞いていたならば、恐らくは心を痛めて途中退席をしたのではないかと思います。
なぜならば、イエスは脅迫やによって回心者を得るという手段は好まなかった筈だからです。もしもそのような脅しという方法、手段を取るとするならば、十字架の上で赦しを祈ったりはせず、神に向かい、神の報復や審判を求めたことでしょう。
 
多くの人が創造主である神を無視して、自分の好む道を歩んでいる、ということは紛れもない事実です。そしてそれは使徒パウロが活動した西暦一世紀の半ばの地中海世界でも同様でした。そこでパウロは当時のローマ帝国の中心地であるローマの集会に宛てて書いた書簡の中で、その事実を指摘しています。
 
「次のように書いてある。『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益な者になっている』」(ローマ人への手紙3章10〜12節 236p)。
 
 それは事実であり、人の実態です。しかし、だからこそ、神はイエスを世に遣わして、そして人の罪の身代わりとして十字架につけて、人に対する愛を示したのでした。次の聖句は新改訳でお読みします。
 
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいりでしょう。しかし私たちが罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(5章6〜8節 新改訳271)。
 
神は私たちが脅迫や恫という脅かしによってではなく、あくまでも自身が造り主なる神から離れて生きているという事実を認識し、自らの意志と判断で真の神の許に帰ってくることを望んでいるのです。
 
時間と空間を超えて、つまり二千年という時を超えて、また神の住まいである天と人の住む地という隔たりを乗り越えて、神に無関心である者、あるいは神に敵対している者のため、キリストとなった救世主イエスは今も、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(34節)と、神に向かって祈ってくれているのです。
 
この時代に、そしてこの国に、イエスの切なる祈りを自分のための祈りとして聞く人が起こされますよう、心から祈りたいと思います。


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