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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年7月21日日曜礼拝説教「詩篇を読む 天地を造られた主なる神こそ、あなたを守る神である」詩篇121篇1〜8節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-07-21 16:55:38 (1162 ヒット)
2013年礼拝説教

2013年7月21日 日曜礼拝説教

「詩篇を読む 天地を造られた主なる神こそ、あなたを守る神である」
 
 詩篇121篇1〜8節(旧約聖書口語訳863p)
 
 
はじめに
 
今年の二月十七日から始めた「アブラハムの物語」は、約束の地カナンにおけるアブラハムの百年にわたる歩みを、五カ月かけて辿って、先週の十四日、十七回目で完結しました。
しかし、年間の教会標語にも掲げた「信仰の高嶺を目指」す、という私たちの歩みはまだ続きます。
 
さて、私たちが毎週の礼拝で唱えている「主の祈り」は、教会の歴史の中で公同の祈祷文という体裁を整えるため、多少、典礼化されていて、その例の一つが締め括りの「国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり」という頌栄であり、そしてもう一つが冒頭の神への呼びかけ、「天にますます我らの父よ」です。
 
そもそも、イエス・キリストが弟子たちの要請に応えて、イエスの弟子の徴しとして与えたオリジナルでは、呼び掛けは「父よ」でした。
 
「また、イエスがある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください』」(ルカによる福音書11章1節 新約聖書口語訳106p)。
 
 子供の頃から祈ることには慣れている筈のユダヤ人が、「祈ることを教えてください」(1節)などとお願いするのは、いかにも不自然です。
 
でもこれは新約学者のエレミアスによれば弟子たちが、「イエスよ、私たちがあなたの弟子であることを示す独自の祈りを、私たちにも与えてください」という要請だったと言います。
つまり、イエスの弟子のしるしである独自の祈りを求める弟子たちに、「そこでこう祈れ」とイエスが言って与えた主の祈りの冒頭がこれでした。
 
「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、…』」(11章2節)。
 
天地の創造者である神に向かって「父よ」と呼びかけることのできる者は、本来、神の独り子のイエス以外にありませんでした。
しかしイエスはご自分を信じる者に、偉大なる神に対して「我が父よ」と呼び掛けることを許してくれたのです。
 
ですから、公同の礼拝で共に祈る時には、私たちは神に対して「我らの父よ」と改まって呼び掛けますが、個人的に祈る時には親しく「我が父よ」と呼び掛けることができるのです。何とも有り難くも勿体ないことです。
 
つまり、イエスは「神対我ら」という神と信仰共同体の関係の基本に、「神対私」「神対あなた」という個人的関係を据えてくださったのです。
 
「信仰の高嶺を目指す」歩みを続ける上で、覚えておかなければならないのは、この「神と私」という神との個人的な関係を人生の基盤とすることであって、この個人的関係を深めることが、「高嶺」を目指す歩みの秘訣なのです。
 
そこでこの夏は、生ける神との個人的な関係を深めるべく、四つの詩篇を読み直したいと思います。
最初の詩篇は、「天地を造られた主なる神こそが、あなたを守る神である」ということを強調した百二十一篇です。
 
 
1.主なる神は、ご自分を求める者の生活の全領域を「守る神」である
 
 男子、家を出ずれば七人の敵あり」などと言います。「何で男子だけなのか、女子も同じだ」という方もいるかも知れませんが、それはそれとして、先人の言葉です。
 
これには二つの解釈があるそうで、その一つは、「人は家庭の中は安全だが、外には足を引っ張る者が多くいる、だから家を一歩でも出たならば努々(ゆめゆめ)油断をするな」という教訓だということ、そしてもう一つは、「子供の頃は親の庇護によって守られているが、大人になって親の保護のない社会に出れば、自分の力でやっていくしかない、だから親を頼ろうなどと思わず、自分の力を養成せよ」ということを教えるものだ、ということです。
 
 どちらにせよ、人が安全かつ無事に世間を渡るということは、容易いことではありません。況して、危険だらけの古代においてをや、です。
 
 そういう中で詩人は告白します。
 
「主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入(い)るとを守られるであろう」(詩篇121篇8節 旧約聖書口語訳863p)
 
 「出ると入るとを守られる」(8節)とは、「行ってきます」と言って玄関を出る瞬間、そして「ただ今」と言って玄関に入る瞬間だけを主が守るという意味ではありません。
 
 古代ヘブル人にとっての文学的用法では、用いられている言葉自体が一つの範囲を示すものでした。たとえば、エデンの園で神がアダムに対して、「善悪を知る木からは取って食べてはならない」と命じました(創世記2章17節)。
 普通、「善悪を知る」と言った場合、何が善か何が悪かを判別するという意味になりますが、創世記の用法はそういう意味ではありません。
 
 では、どういう意味かと言いますと、「善悪を知る」とは善に関する全知識と悪に関する全知識、つまり最善から最悪までの全知識を持つことを意味しました。そしてそれは神だけが持っている知識の領域ですから、「善悪を知る」者となりたいという願望は、神と同等の存在になりたいという誤った欲望を意味したのでした。
 
 神が最初の人類に対し、「善悪を知る木から取って食べてはならない」と厳しく戒めたのは、神が吝嗇、つまりケチンボだったからではなく、人が人の分を超えて神のようになろうなどと考えてはならないということを教えるためだったのです。
 
 そのように「出ると入る」とは、出かけてから帰ってくるまでのすべてを意味しました。
ですから、主が「あなたの出ると入るとを守られる」(8節)という言葉は、一日のうち、家を出てから入るまでの全時間を守ってくれるという意味であると共に、人が大人になって独立して家を「出」ていつの日にか人生を終えて帰るべき所に帰るまでの、人の生活の全領域を、とりわけ、神を信じると告白した者の「今から」「とこしえに至るまで」守ってくれるという確信の披歴でもあったと思われます。
 
 それは具体的には、神を信頼する者のかけがえのない生命やからだという大事なものを、あらゆる内外の厄災から守ってくれる守護者への信仰告白でもあるのです。
 
「主はあなたを守って、すべての災いを免(まぬか)れさせ、またあなたの命を守られる」(121篇7節)。
 
 まさに「主」なる神は、ご自身を求めてやまない「あなたを守って」くれる守り神です。
しかも、その守りは四六時中、不眠不休の守りです。それは恰も重要人物を警護するSP(スペシャル・ポリス)のように、神はあらゆる状況下において、ご自分を信頼する者を守ってくれるのです。
 
「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむことなく、眠ることもない」(121篇3、4節)。
 
 
2.主なる神はご自分を求める者を、その全能の力で「守る神」である
 
では、主なる神はおのれを求める者をどのように守ってくれるのかと言いますと、その神の属性としての全能の力を駆使して、です。
 
「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことがない」(121篇5、6節)。
 
 「あなたを守る者」(5節)である主なる神の守り方として、詩人は「右の手をおおう陰」(同)として守ってくれると言います。
この「主はあなたの右の手をおおう陰である」(5節)という詩句についての解釈としては、手塚儀一郎牧師の註解が最も腑に落ちる解説でした。
 
ヘブルでは右は南で、熱い日光の来る方向。それでその日光の直射する右の方(かた)をおおって陰をつくり保護すること(手塚儀一郎著「旧約聖書略解 詩篇 第一二一篇五−六 598p」日本基督教団出版局発行)
 
 地球生命が生命を維持する上で不可欠なもの、それが太陽です。しかし、この太陽は時期や季節によっては災厄の原因ともなりかねません。
昨日の報道では、東京都内で、僅か一日で六十人ものの人が熱中症で亡くなったということでした。
エアコンの発達した日本の都会ですらそうなのですから、太陽の光と熱がいかに人の体にダメージを与え、生命の危険をもたらすかということは、古代ヘブル人は骨身に沁みて感じていたのです。
 
そういう意味で、紫外線の害が科学的に証明されているにも関わらず、公立の小学校、中学校のプールに紫外線の害を防ぐための屋根がないというのは理解を超えます。生徒と教師の健康を守るためにも行政には適切な措置を早急に講じてもらいたいと思います。
 
詩人の、主なる神があなたを「おおう陰である」(5節)とする告白は、主があらゆる厄災からの守護者であるということを意味する言葉です。
 
「昼」(6節)の「太陽」(同)は外側から来る厄災の代表例ですが、原因もわからないままに、人の内心を脅かす不安感という厄災もありました。
 
日本で菅原都々子(すがわらつづこ)が、「月がとっても青いから 遠回りして帰ろう」(清水みのる作詞)と歌ったのは、日本が敗戦のショックから立ち直りつつあった昭和三十年のことでしたが、古代ヘブル人にとって「月」(6節)は日本人が考えるようなロマンチックなものではなく、人に災いをもたらす元凶の一つとされていました。
どういうことかと言いますと、月が放つ光が人の心に働きかけて精神の調和を乱すものとして恐れられていたのでした。
 
「月」のことをラテン語で「ルナ」というそうなのですが、欧米では「ルナ」を語源とする「ルナシー」や「ルナティック」は精神の異常を表わす言葉です。
 
 古代の人々にもいわゆる心の病というものがありました。それはこの詩篇が出来上がってから六百年以上も経ったイエスの時代においても同様で、現代のような精神医学の知識がなかった古代人にとって、心の病はすべて悪霊のしわざとされ、そのために悪霊の追い出しというものがあったのです。
 現代においては、そのような症状の人に対しては安易に「悪霊よ、出て行け」などと唱えるべきではなく、むしろ、しかるべき専門病院で受診してもらうように勧めてください。
 
 福音書に記述されている、悪霊に取り憑かれたとされた症状は、近代の精神医学で説明できるものがほとんどなのですが、紀元前五八六年のソロモンの神殿崩壊以前の古代ヘブル人にとっては、心の病は夜空に輝く月の光によるものとして、月そのものが恐れられていたのでした。
 
 聖書を、正しく解釈する秘訣の一つは、当該文書の文化的背景を知っておくことです。たとえば、多くの日本人にとって海は親しみ易いものです。しかし、古代ヘブル人、そしてその子孫であるユダヤ人にとっては、海は得体の知れない魔物が棲むところとされていました。ですから、ヨハネの黙示録の著者が未来に出現するとした神の都には海は存在しないのです。
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」(ヨハネによる黙示録21章1節)。
 
 海を恐れていたユダヤ人にとって「海はなくなってしまった」という記述は朗報であったのでした。大切なことは著者の立場に立つ、ということです。つまり、自分の理解は横に置いておいて、相手の立場になってみる、ということです。
 
 先輩から聞いた話です。その先輩がブラジルに行く機会があり、ブラジルの教会で説教をした際、説教自体は喜ばれたそうですが、ある集会で通訳から、「先生、それはやめてください」と言われたというのです。
 
それは何をかと言いますと、当時の日本はバブル経済の真っ最中で、お金が有り余っている時期でした。この先輩は話しの流れで、日本の状況を話す際に、お金を示すジェスチャー、つまり人差し指と親指とで丸をつくって「お金」と言ったのですが、通訳者によれば、それはブラジルではお尻の穴、つまり肛門を意味するジェスチャーなのだということでした。やっぱり、それはまずい、わけです。
 
詩篇の当該箇所も、「昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない」(6節)という詩人の告白を古代ヘブル人の自然理解、自然体験から読むと、七節の言葉がより実感できると思います。もう一度、お読みしましょう。
 
「主はあなたを守って、すべての災いを免れさせ、またあなたの命を守られる」(121篇7節)。
 
時代は違います。また形も異なります。しかも、人の人生を悩ます内憂外患は家の外にだけでなく、敷居を跨がない家の中にいても迫ってくるのが現実です。
そういう中で、全能なる「主はあなたを守る者」(5節)であり、しかもその「主は」(同)神を信じ、神を求めてやまない「あなたを」(同)その全能の力で「守る者」、すべての厄災から守るのだと、この詩人は言い切ったのでした。
二十一世紀を生きる私たちに対しても、詩人は「主はあなたを守る者」と語っているのです。
ただし、神はアラジンの魔法のランプに出てくるような何でも願いごとを聞く大男ではありませんから、その守り方については神に委ねることが肝要です。
 
 
3.神を求める者を「守る神」は、見えない神殿となったイエス・キリストであることを確認する
 
 最後に、この詩篇百二十一篇について考えたいと思います。標題には「都もうでの歌」とありますように、詩の類型からはこの詩は「巡礼詩」に分類されます。「都もうで」の「都」とは神殿のあるエルサレムを意味しました。
 
エルサレム神殿は紀元前五八六年に、メソポタミアの大国バビロンの攻撃を受けて破壊炎上してしまいますから、この詩が作られたのは、神殿が破壊される以前、地方からエルサレム神殿に詣でた巡礼団が、神殿の建つ丘や周囲の山を仰いで歌ったもので、巡礼の団長と団員とが交互に歌ったものと考えられています。
 
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る」(121篇1節)。
 
 詩篇をリビングバイブルで読むことをお勧めしているのですが、一二一篇の一節に関してはお薦めできません。
 
リビングバイブルはここ一節を「私は、山に住むという神々に、助けを仰ぐべきでしょうか。いいえ、真の助けは、山々を造られた神様から来るのです」と訳しているのですが、口語訳が「山」と訳したものを原語通りに「山々」と訳したことは評価できても、そして自然を崇拝する多神教の日本人にはピタッと来る訳なのですが、一神教の古代ヘブル人には「山に住む神々」という観念はありませんので、これは読み込み過ぎでしょう。
 
では、巡礼者たちが「山にむかって目をあげ」(1節)た「山」つまり山々とは何かということですが、それはエルサレム神殿が建つシオンの丘、そしてその丘に連なる山々を指したのかも知れません。
そして、彼らが「山(々)にむかって目をあげ」たのは、彼らの真の「助け」がそこにおいて礼拝者と出会ってくれるという信仰があったからでした。
 
イスラエルの歴史を南ユダ王国の視点で書いたとされる歴代志によれば、神殿建立の際にソロモン王は、神は偉大であるがゆえに、いと高き天も容れることはできない、況してや私が建てたこの建物などはなおさらである、ただ、神の民がこの神殿で祈るとき、神がその住まいである天から聞いてくれることを願いました。
 
「しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てた家などなおさらです。しかしわが神、主よ、しもべの祈りと願いを顧みて、しもべがあなたの前にささげる叫びと祈りをお聞きください。どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家に、すなわち、あなたの名を置くと言われたところに向かってお開きください。どうぞ、しもべがこの所に向かってささげる祈りをお聞きください。どうぞ、しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天から聞き、聞いておゆるしください」(歴代志下6章18〜21節 旧約口語609p)。
 
 では、エルサレムに巡礼に行くべきなのか、そうではありません。再建されたエルサレム神殿も、西暦七十年にローマの軍隊によって完膚なきまでに破壊され炎上をしてしまいました。今に残るのは神殿の西壁だけです。
 
 では、私たちがどこで生ける神と出会い、どのようにして神を礼拝、讃美すべきなのでしょうか。
繰り返します、神殿の機能は人が神と出会い、神と親しく交わることにあります。そして今日、死者の世界から神によってよみがえらされたイエス・キリストこそ、神との交わりを可能とするため、目には見ることのできない神殿となって、神との交わりを可能にしてくれるお方なのです。
 
そのことを示したのが、神殿祭儀に通じたヘブル人への手紙の著者でした。リビングバイブルでお読みします。
 
「この新しいいのちに至る道は、キリスト様が、ご自分の体という(聖所に至る)幕を引き裂くことによって、切り開いてくださいました。私たちは(キリストという)この道を通って、きよい神様の前に進み出ることができるのです」(ヘブル人への手紙10章20節 リビングバブル)。
 
 巡礼団は、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」(1節)と信じ告白をしましたが、今日、必要かつ重要な神の「助け」(同)は、死者からの復活後、神から全権を委任された「王の王、主の主」であるイエス・キリストから「来る」のです。
 
 今年も酷暑の夏が始まりましたが、暑さに負けずにキリストと私、神と私という個人的な関係を深めるべく、日曜ごとに礼拝を積み重ねたいと思います。


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