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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年6月2日六月日曜特別礼拝(第一回)説教「十字架の物語.ぅ┘后Εリストは、一点の染みもない人生を生きた唯一の人であった」ルカによる福音書23章1〜24節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-06-02 16:41:47 (965 ヒット)
2013年礼拝説教

  20136月2日 六月日曜特別礼拝説教(第一回) 

「十字架の物語.ぅ┘后Εリストは、一点の染(し)みもない人生を生きた唯一の人であった」 
  
  ルカによる福音書23章1〜23節(新約聖書口語訳130p)
 
 
はじめに
 
二〇〇七年、佐賀県警が、警察官が制服のままコンビニ等で買い物をすることを解禁し、それが全国の警察に波及しました。
 
日本では警察官の制服にアレルギー反応を示す向きがあります。たとえば青年期に大した理念もないまま若気の至りで学生運動に参加し、機動隊から警棒で殴られたことによってトラウマを持った団塊世代などがそうです。
しかし、後ろめたいことのない一般市民にとって警官の制服は安心感を与えてくれます。
 
 息子が警察官採用試験に合格し、無事に警察学校を卒業して警察官に任用されたお父さんがいました。その息子が職場結婚をすることになりました。
 
結婚披露宴の挨拶で父親は感激のあまり、「息子が警察に大変お世話になりまして…」と切り出したところ、会場からドッと笑い声が。純朴そのものの父親は何で会場が沸いたのかわからず、もう一度「息子が警察に大変お世話になりまして」と大真面目に繰り返したところ、会場からもっと大きな笑い声があがったというのです。
 
新郎新婦が共に警察で働いている関係上、来賓の多くが警察関係者だったこともあるからで、通常、世間で「警察に世話になった」という場合、それは犯罪や違反行為で警察に逮捕されたり、罰則を受けたりすることを意味するからです。それが式場の笑いの背景にありました。なお、これは実話だそうです。
 
 実はかく言う私も一度だけ「警察のお世話になった」ことがあります。ある深夜、守口から寝屋川に戻る途中、うっかりして赤信号の交差点に進入してしまいました。一瞬、横目で見た左側に、屋根に賑やかなイルミネーションをきらめかせた白と黒の乗用車が信号待ちをしていました。何とパトカーの目の前で信号無視をしてしまったというわけです。
 
初めて乗ったパトカーの後部座席で手続きを済ませて自分の車に戻り、発進しようとしましたらエンジンがかかりません。やはり動顛していたのかライトを点灯したまま車を離れていたようで、そのためにバッテリーがあがってしまったのです。
 
なかなか発進しないので不審に思ったのでしょう。先ほどの警官が近づいてきました。「どうしました?」「いや、どうもバッテリーが…」と答えると、パトカーを呼び寄せて、バッテリーケーブルをつないで充電のサービスまでしてくれたそのうえに、「途中でエンストするかも知れませんから、ゆっくりと、気をつけてお帰りください」という言葉までかけてくれました。
 
この時、私は確かに二重の意味で「警察の世話」になっていたというわけです。守口警察署の折り目正しい紳士然とした二人の交通警官に幸あれ、です。
 
さて、今年も六月から十一月まで、第一日曜日の礼拝を、聖書を初心者に分かり易く解くことを目的とした、日曜特別礼拝とすることになりましたが、今年は、イエス・キリストの生涯におけるクライマックスである十字架の場面を通して、今も生きているキリストに、求めれば誰でも会うことができる、そしてこのキリストによって人生を変えることができると言う福音をお知らせしたいと思います。
 
そこで第一回の本日は、イエス・キリストがその人生において、一点の染みもない日々を送った稀有の人であったという事実を通して、イエスが処刑されることとなった理由を中心に、イエス・キリストとはどのような人であったのかということをご紹介させていただきます。
 
 
1.イエス・キリストは、一点の染みもない人生を生きた唯一の人であった
 
イエス・キリストは最後の晩餐のあと、ユダヤ警察によって逮捕されたばかりか、ユダヤの法廷で有罪とされて死刑判決を受け、さらに、その直後に開廷されたローマの法廷でも国家反逆罪で十字架刑という極刑を宣告されました。
西暦三十年四月七日金曜日の夜半から早朝にかけてのことでした。
 
二つの法廷で有罪宣告を、しかも死刑判決を受けたと聞きますとと、知らない人は、イエスは極悪人だったのだろうと思ってしまうと思うのですが、しかし不思議なことにローマの法廷では、裁判長のローマ総督ピラトがイエスを告発したユダヤ当局に向かって、再三、被告イエスには罪を認めることができない、と説明をしているのです。
 
「そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、『わたしはこの人になんの罪をも認めない』」(ルカによる福音書23章4節)。
 
「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみられなかった。(ガリラヤの領主の)ヘロデもまたみとめなかった」(23章14、15節前半)。
 
「ピラトは三度目に彼らにむかって言った、『では、この人はいったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当たる罪は全くみとめられなかった』」(23章22節前半)。
 
 実はこの時期、ローマ帝国の属州という地位に甘んじていたユダヤは、自治は認められてはいるものの、死刑の執行権をローマに取りあげられていました。
ですから、ユダヤの法廷で神罪(とくしんざい)といって、神の名を瀆(けが)したという罪状で死刑判決を下したにも関わらず、ユダヤ当局はイエスを処刑することができなかったのです。
 
そこで彼らはイエスをローマの法律によって、国家反逆罪の廉で合法的に亡き者にしようと考えたのでした。ローマの法律では国家反逆罪は十字架刑だったからでした。
イエスはユダヤ当局によって扇動された群衆(その多くは過越しの祭に参加するため地中海世界から上ってきた外地住まいのユダヤ人巡礼たちでしたが)によって、ローマ総督ピラトの官邸へと連行されてきました。
 
「群衆はみな立ちあがってイエスをピラトのところへ連れて行った。そして訴え出て言った、『わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢(みつぎ)をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました』」(23章1、2節)。
 
 ピラトはユダヤ人の訴えの背後にあるものが政治的な事柄ではなく彼らの宗教的主張によるものであって、しかもその訴えが冤罪であることを認識しておりましたので、「訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった」(14節)と、まるで弁護士のような発言をしたのでした。
 
ここでピラトが言っている「罪」はあくまでも訴状にある国家反逆罪のような政治的罪はなかったということなのですが、通常、人間であるならば、どんな人でも叩けば埃が出てくるものです。
 
ピラトは属州ユダヤでは、ローマ帝国の軍事と警察の権限の一切を握っている総督、正式には行政長官でした。
当然、治安を守るためには、巷で評判となっているイエスの振る舞い、行動、発言すべてを秘密裏に調査させ、その調査報告書は逐一彼のもとに上がってきている筈です。
 
そして上がってきた調査報告書には、不穏な政治的動きは皆無であるだけでなく、そのなすところがすべて、人間道徳の最高水準を行っていることに驚かされたのだろうと思います。
「この人は、いったいどんな悪事をしたのか」(22節)という問いに、ピラトの驚きが表われています。権謀術数を弄して現在の地位についたピラトにとって、こんなにも清く正しく、しかも慈愛に溢れた人は見た事も聞いたこともなかったのでしょう。
 
相対的な意味で正しい人、真面目に生きている人はいくらでもいます。しかし、過去の行状や発言だけでなく、心の中の思いや、密かに想像したことまでも、自信をもって人前に公開できる人は、恐らくは存在しないであろうと思います。
しかし、この三十代半ばのユダヤ人イエスのみ、外側どころか、隠れたところにおける行動や言動はもとより、人の目には見えない心の中までも、罪も汚れも悪も不正も何一つないという人生を生きていたのでした。
 
二千年前、突如、ガリラヤ湖畔に現われて苦しんでいる人々を救済し、そして都エルサレムで神の言葉を解き明したイエスは、一点の染みもない人生を生きた唯一の人だったのです。
 
 
2.イエス・キリストは、あくまでも人として罪の誘惑を退けて罪なき人生を生きた
 
 ある人は言います、イエス・キリストが罪のない生涯を送ったことこそ、イエスが神の御子であることの証拠である、と。違います。
確かにイエスは神の独り子ではありました。しかし、イエスは神性という神の性質によって罪から守られたのではなく、あくまでも罪を犯し得る一人の人間として生きて、そして罪の誘惑を退けて生きた人だったのです。
 
イエスも人間ですから罪の誘惑を感じます。しかし、誘惑を感じながらその都度、誘惑を退けて神の心、神の戒めを具体化した神の律法を守り抜いてきたのでした。
その辺の消息をヘブル人への手紙の著者は、イエスは神への絶対的な信仰によって誘惑を退けたのだと説明しています。
 
「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞き入れられたのである。彼は御子であるにも関わらず、様々の苦しみによって従順を学び、そして全(まった)き者とされた」(ヘブル人への手紙5章7〜9節前半 347p)。
 
 ではなぜ、そうしてまで、罪の誘惑と戦って、罪なき生涯を貫いたのかと言いますと、それは人類の罪の身代わりになって、人類すべての罪を清算するためであったのです。
 「人類の」などと言いますと話しが大きすぎてピンと来ないかも知れません。では「あなた一人の」と言い換えたらどうでしょうか。イエスは「あなた一人」の身代わりとなって、そして「あなた一人」の罪を清算するために、罪の誘惑と戦って、罪なき人生を送ったのです。
 
 「氷点」や「塩狩峠」といった名作を著わして、十四年前に天に旅立った作家の三浦綾子が、「聖書と私」という伝道パンフレットに書いていたことを思い起こします。
 
「あなた一人だけのためにでも、キリストはあなたの罪を負って、十字架にかかってくださったでしょう」と、ある伝道師が言った時、私は戦慄にも似た激しい感動を受けた。この自分の罪のために死んでくれた人がいた、というそのことが、理屈ではなくて肌身に沁みてわかったのである。
 
 イエス・キリストは神の子としての立場ではなく、あくまでも人として罪の誘惑を退けて、罪なき人生を生きたのでした。そしてそれは、あなた一人、わたし一人の身代わりとなるためだったのです。
 
 
3.無実のイエス・キリストを罪あるものとすることによって、
人間の原罪が明らかとなった
 
イエスが無実であることを知りながら、ユダヤの大祭司はなぜイエスを亡き者にしようとしたのかと言いますと、それは現在の体制を維持する事によって得ている、そしてこれからも入手できるであろう莫大な利権とその利権を生み出す構造を保とうとしたからでした。
 
またローマの高級官僚であるピラトの場合は、ユダヤ総督としての職責を何事もなく務めることによって、将来にわたる安定した立場を保持することを優先させたからです。つまり、ピラトの動機は自己の保身にあったのでした。
 
そしてそれら、正義よりも公正よりも己の卑しい利益を、そして神に喜ばれることよりも自己の安全を第一とする生き方を、聖書は原罪と言っているのです。原罪とは木でいえば根や幹のようなものであって、個々の罪は枝になる実に喩えることができます。問題は根であり、幹なのです。
 
結局、イエスを無罪放免にしようというピラトの提案は退けられて、「イエスを十字架につけよ」という声が勝ちました。自己保身を第一としたピラトは脅迫に負けて、無実のイエスの十字架刑執行の命令書に署名をしてしまいます。
 
「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した」(23章23、24節)。
 
 彼らは何が善であり、何が悪であるかということがわかっていながら悪を選択したのでした。
ユダヤの法廷とローマの法廷は、いみじくもイエスの無罪性と人類のおぞましい有罪性が明らかになった場でもあったのでした。
 
そもそも自己中心と利己主義は似て非なるものです。自己中心は人間性が未熟であるために、何ごとにつけても自分を中心に考え行動することです。ですから自己中心的な人は自分が自己中心であるという認識がありません。
 
これに対し、利己主義はその行為が悪であるとわかっていながら、つまり自分が自己中心であるということを十分に認識していながら、欲望に身を委ねる生き方を言います。そして利己主義こそが原罪の一つの正体でした。
そういう意味ではユダヤ議会を代表しながら利権を優先させた大祭司も、そして自己保身からそのユダヤ議会に妥協したピラトも、原罪の影響の下にあったのです。
 
しかし、彼らを責める資格のある者はいないと言ってもいいでしょう。なぜならば、多少の違いはあっても、人は最後には正義よりも自分自身の身を守ろうとするからです。それが原罪の下にいる人間の正体なのです。
 そしてイエス・キリストこそ、この人間の根源的な性ともいうべき原罪を解決するために、神の子でありながら人として生まれ、人として一点の染みもない人生を生き、その上で罪なき身を、原罪の下にある人類の身代わりに捧げることによって、原罪の持つ呪いを処分しようとされたのでした。
 
 イエスが人間の中で唯一、罪の誘惑を退けて罪なき生涯を生きたのは、勿論、イエス自身、罪を嫌悪したからですが、もう一つの理由は、私たち罪びとを原罪から解放するためであったのでした。
 
 悲しいことですが生まれながらの人の場合、良心のせめぎ合いでは、最後には常にこの原罪の「声が勝」(23節)つこととなります。
しかし、人の弱さを熟知し、また熟知しているからこそ敢えて人となったイエス・キリストは、無実の自分を十字架へと追い込んで行った大祭司と総督ピラトを、驚くべきことですが責めてはいないのです。責めていないどころか、十字架の上で神に向かい、「父よ、彼らを赦し給え」と彼らのために罪の赦しを祈ったのでした。
 
「斯(かく)てイエス言いたもう、『父よ、彼らを赦し給え。その為(な)す所を知らざればなり』」(23章34節 文語訳)。
 
そのイエス・キリストは今も、私たちのために赦しを祈ってくれているのです。
 
 今月から始まる「十字架の物語」において、イエス・キリストの真実の姿をぜひ知っていただきたいと思います。


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