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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年5月19日聖霊降臨日礼拝説教「信仰の祖アブラハムは、神の前にひとり立って滅びようとする人々のため執成しをした」創世記18章16〜33節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-05-19 16:24:20 (1068 ヒット)
2013年礼拝説教

20135月19日 聖霊降臨日礼拝説教 

「信仰の祖アブラハムは、神の前にひとり立って滅びようとしている人々のため執り成しをした」 
 
   創世記18章16〜33節(旧約聖書口語訳20p)
 
 
はじめに
 
今年の五月十九日は、教会の暦では聖霊降臨日です。この日は西暦三十年四月九日のキリストの復活から数えて、ちょうど五十日目にあたる日曜日で、ユダヤでは仮庵の祭、過越の祭と並ぶ三大祭の一つ、「五旬節」の日でした。
 
「五旬節」はそもそも、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民がモーセに率いられて出エジプトを決行してから五十日目に、モーセがシナイ山において十戒を授けられたという出来事を記念するために定められた祝日でした。
 
イスラエルの民がカナン(その後パレスチナ)に定住してからこの五旬節は、小麦の収穫を祝う「小麦刈りの初穂の祭」(出エジプト34章22節)として盛大に祝われました。
 
使徒行伝の二章一節から四節の記録によれば、イエスの復活後の五〇日目にあたるこの「五旬節の日がきて、(イエスの弟子たち)みんなの者が一緒に集まってい」たところに聖霊の降臨があって、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出」すという現象が起きたので、そこで教会はこの日を教会暦において、聖霊降臨日として位置づけているわけです。
 
なお、この「五旬節」がギリシャ語訳旧約聖書と新約聖書のギリシャ語原文で、五十番目を表わす「ペンテコステ」という言葉に訳されていることから、聖霊の降臨とその顕現を強調する教会は、ペンテコステ派、あるいはペンテコステ教会として知られることとなりました。
 
聖霊降臨の場所ですが、一般的には使徒行伝の一章に記されている集まりの場所が「屋上の間」(1章13節)であったことと、聖霊降臨の際に現われた現象に「一同がすわっていた家いっぱいに響き渡った」(2章2節)という記述があることから、その後、初代教会の集会施設として使用されることとなるマルコの母親の“家”がその現場と信じられてきました。
 
しかし、物音を聞いてそこに集まってきた人々の内、ペテロの説教を聞いて三千人ものユダヤ人がキリスト教に改宗した(2章41節)ことが事実だとしますと、物理的収容能力をはるかに超える「家」では説明がつきません。
 
では、聖霊降臨の現場はどこだったのかと言いますと、考えられるのはエルサレム神殿を囲む回廊ではなかったのかと思われるのです。
 
神殿は南北が五百メートル、東西が三百メートルの南側がやや狭い長方形で、東側の壁に沿ってソロモンの廊と呼ばれる有蓋の回廊があり、これは「ソロモンの廊」と呼ばれておりました。初期の弟子たちはここで集まりをしていたのではないかと思われます。
 
「彼がなおペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、『ソロモンの廊』と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた」(使徒行伝3章11節)。
 
 しかもその時間はペテロの証言にあるとおり、「朝の九時」でした。
 
「今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない」(2章15節)。
 
 ユダヤ人は通常、朝の九時、正午、午後三時に祈るという習慣がありました。
ですから、聖霊降臨の時、弟子たちは祈るために神殿に来ていたということが考えられるのです。
 
 しかし、「家」(1章2節)とあるではないかということですが、ギリシャ語の専門家によりますと、「家」と訳された原語の「オイコス」は必ずしも建物だけを指すのではなく、家の中の人や物を意味するのだそうです。
 
「オイコスは、本来は一家の内にある人、物、財産、オイカは、住居それ自体を指す」(玉川直重著「新約聖書ギリシャ語辞典」279p)。
 
総合的に判断しますと、聖霊降臨の現場はマルコの実家の「屋上の間」(1章13節)ではなく、エルサレム神殿東側の「ソロモンの廊」(3章11節)だったと考える方が合理的です。
 
でも大事なことは聖霊降臨という出来ごとの場所捜しではなく、聖霊が降臨したことの意味です。
 
勿論、一つは教会が天よりの力を受けて、キリストの証人としての働きをすることです。
 
しかし、もう一つ大切な意味があります。それは、聖霊は信者の祈りを助け導く祈りの霊として降臨した、ということです。
 
とりわけ、つらいことが重なって言葉にすることも出来ない心の中の呻きを祈りとして、神に届けるという役割を担うために、神によってこの地上に送られた、それが聖霊なのです。聖霊は信者の祈りを助けるためにこの地上に注がれたのでした。
 
ところで祈りには他者のために執り成す、執り成しの祈りというものがありますが、アブラハムはその執り成しの祈りにおいても私たちの手本です。
 
今週のアブラハム物語は、神の前にひとり立って、今まさに滅びようとしている人々のため、必死で執り成しをしたアブラハムに焦点を当てます。
 
 
1.信仰の祖アブラハムは、いつの間にか神の友、神のパートナーという立場を与えられていた
 
「昼の暑いころ」(創世記18章1節)に、アブラハムの天幕を訪れた「三人の」(2節)旅人には、三つの使命があったようです。
 
一つはサラが男児を産むという神からのお告げをサラに伝えること、もう一つは悪徳の町であるソドム・ゴモラの実態調査をし、その結果によっては神の審きを下すこと、そして三つ目がそのことをアブラハムに知らせることだったのです。
 
「主はまた言われた、『ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう』」(創世記18章20、21節 旧約聖書口語訳20p)。
 
 アブラハムの天幕における昼食と休憩の後、神は、これからソドム、ゴモラを実態調査し、その結果によってはこれらの町に審きを下すという目的を、見送りにきたアブラハムにも告げるのです。
 
「その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。時に主は言われた、『わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか』」(18章16、17節)。
 
それはソドムにアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいたからだけではありません。神にとってアブラハムは、深い絆で結ばれた友であったからでした。神はアブラハムのことを「わが友」として紹介します。
 
「しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」(イザヤ書41章8節 999p)。
 
 「わが友アブラハム」、何と魅力的な響きでしょうか。いつの間にかアブラハムは、神の友とされていたのでした。畏敬すべき偉大な神によって、です。羨望を禁じ得ない言葉です。
 
しかし、私たち、アブラハムの後に続く者たちもまた、神の御子のイエスによって、神の友と呼ばれているのだということを思い出したいと思います。
 
「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネによる福音書15章14節 新約語訳166p)。
 
 イエスの友とされる条件はただ一つ、イエスが「命じることを行う」ことでした。ではイエスが命じることとは何かというならば、それは「互いに愛し合」うということに尽きました。
 
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(15章12節)。
 
 ただし、「互いに愛し合」うにあたっては、「わたし(イエス)があなたがたを愛した」という事実が先行します。人は愛されることなくしては愛することはできないのです。
 
 そしてアブラハムもまた、長い信仰の旅路において、自らが愛される価値がないにも関わらず、神の大いなる慈しみによって支えられ、その大きな愛に包まれてきたことを知るに至ったのです。
アブラハムは知らずして、神の友という立場を与えられていたのでした。
 
 
2.信仰の祖アブラハムは、滅びようとする人々のために神の前にひとり立って執り成しをした
 
神の友であるかどうかは、隣り人を愛しているかどうかということによって明らかにされます。
 
ではアブラハムはどうかと言いますと、次の行動で彼が神の友であることが証しされることとなったのでした。
アブラハムの天幕を訪れた旅人たちの目的の一つが、ソドムの実態調査であって、その結果によってはこれらの町が審かれることを知ったアブラハムは、ソドムに向かおうとする主の前に立って執り成しを開始します。
 
「その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、『まことにあなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか』」(創世記18章22、23節)。
 
 アブラハムは当然、ソドム、ゴモラの実態を知っていました。ですから、このままでは実情調査の結果、これらの町が間違いなく滅ぼされるであろうことを予想せざるを得ませんでした。
 
もしもそうなったら甥のロト、そしてその家族も滅んでしまう、それは避けなければならない、危機感を持ったアブラハムは、「悪しき者が自らの悪によって滅びるのは止むを得ないことかも知れません。しかし、その悪しき者の巻き添えで正しき者が滅んでしまうことになったとしたら、公正なる神という神の評価は地に墜ちることになるのではないでしょうか」という論理を展開することによって、執り成しの祈りを始めたのでした。
 
 アブラハムの第一の心配はロトをはじめとするその親族の運命でした。アブラハムは自分の許を去ってソドムに移り住んだ甥のロトを常に案じておりました。だからこそ、彼がメソポタミアの大国の軍隊に拉致されたとき、命がけで救出に向かったのでした。
 しかし、同時にアブラハムは悪徳の町であるソドム、ゴモラの隣人として彼らが滅びから救われることを切に願って、「主の前に立っていた」(22節)のでした。
 
そして、それこそが、アブラハムが神から「わが友アブラハム」(イザヤ書41章8節)と呼ばれた所以でありました。
 
私たちが家族、親族、友人、知人、関係者、地域の人々そして同胞が滅びないようにと、執り成しの祈りを捧げることは、人情として当然のことです。
しかし、アブラハムは関わりを持つわけでもない単なる隣人たちのため、責任を感じる必要のない者たちのためにも必死になって執り成しをしたのでした。
 
日本国にとっての隣人といえば、北東アジアの三つの国で、いずれも過去の出来事をネタにして、しかも歴史を捏造してまでも、執拗に反日教育、反日宣伝に明け暮れていて、かつて福沢諭吉が時事新報の社説で「我が心に於いては亜細亜東方の悪友と謝絶するものなり」と説いた、どうしようもない国々です。
 
しかし、イエスの「あなたがたも互いに愛し合いなさい」の「あなたがた」が同族、同胞の域を超えて隣国をも意味するのであれば、私たちもまたアブラハムに倣って、隣国が滅びから免れるようにと、執り成しの祈りを捧げることが必要なのです。
 
実際、大陸の惨状を知るにつけ、彼の国のため、そしてその国に住む、あるいは住まざるを得ない住民のために祈らねばならないという思いが沸々と沸き上がってきます。
隣国は国土の広さ、人口、国家的経済規模、防衛費などを見ますと確かに「大国」ではありますが、国全体が汚染と腐敗の極みにある状態といえます。
 
まず環境汚染が深刻です。地下水、河川、土壌、大気、そして海洋の汚染は住民の健康を蝕み、とても人間が住めるような状態にありません。近海で獲れる魚はいずれも汚染によって食用に耐えられず、このため漁民は韓国領海、日本領海で不法な漁をし、しかも乱獲をする結果、取り締まり当局との間でトラブルが絶えません。
 
汚染大気も偏西風に乗って我が国にも飛来しています。この国では野菜を専用洗剤で洗うそうですが、汚染された水と土壌で生産され、おまけに国際的基準値をはるかに超えた農薬まみれの野菜は、洗剤で洗っても毒性が消えるわけではありません。
 
環境に加えて人心が汚染されているため、食料品や製品への有害物質の使用、狐や鼠の肉の羊肉への転用などは氷山の一角に過ぎず(まさに羊頭狗肉です)、このため、富裕層や高級官僚は、国産品を決して口にせず、食品はすべて、日本から輸入された安全なものを購入するそうです。私たちの教会で使用している紙コップも割り箸も、安全性を考慮して、すべてメイドインジャパンです。メイドインチャイナに比べると高価ですが、健康を守るためには止むを得ません。
 
人心の荒廃は社会の荒廃へと波及します。車に轢かれた子供の横を誰もが知らぬ顔をして通り過ぎている映像が最近、世界中に流れました。
他者の痛みには我関せず、という風潮が蔓延しています。道に倒れていたお年寄りを助け起こそうとした通行人が加害者扱いされて賠償金を要求された、というような出来事が頻発したため、うっかり人助けもできないという風潮が加速されているとのことです。
 
そして汚染の頂点にあるのが政治です。政治家と高級官僚の第一の関心は、権力の基盤としての現体制の維持であると言われています。
つい最近、政府から北京や上海の大学関係者に、授業で使ってはならないという「七禁句」が言い渡されたそうです。
 
それは、自由や人権を意味する「普遍的価値」、検閲を否定する「報道の自由」、基本的な人権制度に繋がる「公民社会」や「公民の権利」、「党の歴史的誤り」そして「司法の独立」など、民主主義国家では基本とされる用語ですが、これら、使用の禁止が意味するものは一目瞭然です。
 
見た目は大国であっても、内的に崩壊しつつある隣国のために、とりわけ子供たちのためにアブラハムに倣い、神の前に立って執り成しの祈りを捧げる者を神は今日、求めておられるのではないかと思われます。
 
「夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」(哀歌2章19節)。
 
 
3.信仰の祖アブラハムの執り成しは、あたかも神を説得するかのごとき祈りであった
 
 神への執り成しをするにあたってアブラハムが取った祈りには、一つの特徴がありました。それは弁護士が被告の無罪を勝ち取るために、裁判官を説得しようして論理を一つ一つ積み上げていく弁護にも似た、いわゆる弁証的な祈りでした。
 
アブラハムは先ず、「正義の神は、正しい者が悪しき者の巻き添えになって滅びることはゆるさない筈である」という、神の性格を根拠にして、「もしも彼の町に五十人の正しい者がいれば、その五十人のゆえに町を滅ぼすことをしない」という確約を神から取りつけます。
 
「『たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。…全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか』。主は言われた、『もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう』」(18章24〜26節)。
 
アブラハムはソドムの町における甥ロトの信仰的影響を期待したのでした。
しかし、不安になり、そこで「四十五人」「四十人」「三十人」「二十人」「十人」とディスカウント交渉をして神に食い下がり、十人の正しい者がいれば、その十人のゆえに滅ぼさないという言質を神から得ます。
 
「アブラハムは言った、『わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します。もしそこに十人いたら』。主は言われた、『わたしはその十人のために滅ぼさないであろう』」(18章32節)。
 
アブラハムはただ言葉を並べるだけという漫然とした祈りをしたのではなく、神の性格を根拠にして、あたかも神を説得するかのような勢いで、論理を積み重ねます。
論理的に祈るということの効用は、祈る者自身が自分の祈りに確信を持つことができるというところにあります。
 
十九世紀、英国において孤児の父と称されたジョージ・ミュラーの祈りの根拠は、先週も紹介しました詩篇の一節でした。
 
「その聖なる住まいにおられる神は、みなしごの父、やもめの保護者である。神は寄るべなき者に住むべき家を与え、めしゅうどを解いて幸福に導かれる」(詩篇68篇5、6節 804p)。
 
 神の言葉、神の性格を根拠にした祈りは、祈る者に祈りは聞かれるという確信と平安をもたらすのです。アブラハムもまた、神の性格、専門用語を使えば神の属性を根拠にして理詰めで神に迫ったのでした。
 
 しかし、アブラハムの執り成しにおいての最大の注目点は、あたかも神がアブラハムに説得をされたかのような振りをして、彼の願いを聞かれたことでした。神は人が祈る前から、人が求めているものが何かということをご存知であって、既に良き答えを用意してくれているのです。
 
では、それでも人はなぜ祈るのかと言いますと、それは私たちの信仰を養い、信仰を育てるためなのです。人は祈りにおいて、とりわけ他者のために祈るという執り成しをするときに、視野が広く開け、そして信仰が成長するのです。
 そして、祈って、祈って、祈り抜く、神と語って語り尽くすという段階に行けば、その後に訪れるものは祈り終えたという平安です。
 
「主はアブラハムと語り終わり、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った」(18章33節)。
 
 もちろん、自分のために祈ることも必要です。でも、人は自分のこととなるとどう祈ってよいのかわからないという場合があります。とりわけ、抱えている問題が複雑多岐にわたっているような場合には、祈りの言葉が出て来ないまま、ただ時が過ぎていくということがあります。
 
そしてそのような場合に、自分のことは措いて、他者のために執り成しの祈りをしてみると、不思議なことですが、やがて、自分が抱えている大きな問題のためにも祈ることができるようになるのです。これは多くの人の経験です。
 
なぜか。それは聖霊が弱い私たちを助けるため、とりわけ祈りの霊として働きかけてくださっているからです。
 
「御霊もまた、弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」(ローマ)人への手紙8章26、27節)
 
「弱いわたしたち」(26節)とありますが、これは「私たちの弱さ」と訳すこともできます。そして私たちが抱える様々の弱さ、すなわち信仰の弱さ、祈り得ないという弱さを持つ「弱いわたしたちを助けてくださる」(26節)ために送られたのが神の霊である聖霊なのです。
 
ではどのように「助けてくださる」(26節)のかと言いますと、ローマ書註解の第一人者であった松木治三郎牧師の「たすける」の原語についての註解が理解の「たすけ」になります。
  
「スュンアンティラムバネタイは、スュン(共に)」とアンティ(代わって)とラムバノマイ(重荷を担う、軽くする)の三つのことばからなっている。…自分でどうすることもできない私たちの絶望的な弱さ無力さの下に、御霊が入りこみ、私たちに代わって、私たちをになう」(松木治三郎著「ローマ人への手紙」317p 日本基督教団出版局)。
 
これが、神が地上に送られた御霊の「たすけ」です。 
聖霊は弱い私たちの祈りを助ける祈りの霊として降臨し、今も信じる者のうちにあって働き続けてくださっているのです。
 
かつて信仰の祖アブラハムがそうであったように、聖霊に助けられて、臆することなく躊躇うことなく、今後も神の前に立って他者のために祈る者、執り成す者でありたいと思います。


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