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2013年礼拝説教
2013年礼拝説教 : 2013年5月5日日曜礼拝説教「信仰の祖アブラハムは、神の更なる約束に対し行動で応えた」創世記17章1〜27節
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-05-05 16:06:30 (920 ヒット)
2013年礼拝説教

20135月5日 日曜礼拝説教

 
信仰の祖アブラハムは、神の更なる約束に対し行動で応えた」 
     
   創世記17章1〜27節(旧約聖書口語訳17p)
 
 
はじめに
 
先週、ユネスコの文化遺産の方の諮問機関であるイコモスが、三保松原を外すことを条件に、富士山を「世界文化遺産」として登録することをユネスコに勧告することになった、というニュースが飛び込んできました。
 
 昨日の朝、そのニュースをテレビで見ながら、十数年前に富士山に登った経験のある妻は、「富士山はゴミと馬の糞で目も当てられなかった、至る所に壊れた冷蔵庫や洗濯機が捨てられていて、登山道は足の踏み場もなく、吐き気がする程だった、文化遺産なんて大丈夫だろうか、今の富士山は遠くから眺めるのがいいのに」と慨嘆していました。
 
私から見ても、本来、何事も肯定的に見る妻にしては厳しい感想、と思ったのですが、新幹線から眺めるだけで、五合目にすら登ったことのない私には、実際の富士山の汚さは想像の範囲外です。
自然遺産が難しくなったため文化遺産の方に切り替えた今は、環境汚染も多少は改善されているかも知れませんが、世界文化遺産に登録されることによって、富士山の美化は進むのか、それともますますゴミだらけになってしまうのか、とりわけ、外国から観光客が押し寄せてきたら、特にマナーの悪さに定評のある彼の国の人々が来るようになったら、富士山はどうなってしまうのか、少々心配です。
 
個人的には富士山の世界遺産登録など、不要だと思っています。登録しようとしまいと、日本人にとって「富士は日本一の山」(文部省唱歌「ふじの山」巌谷小波作詞)であることに変わりはないわけですから。
 
 富士登山はともかくとして、私たち一人一人もまた、信仰の祖であるアブラハムが登った信仰の高嶺、恵みの高き嶺をアブラハムの「遺産」として、日毎に登りゆきたいと思います。
 
今週は、神の更なる約束に対して、行動を以って応えたアブラハムに教えられます。
 
 
1.信仰の祖アブラハムは、神の言葉を受け止めら   
  れずに不信の笑いで応じた
 
 「女 賢(さか)しうして 牛 売り損な(の)う」という慣用句そのままに、妻のサラが先走り、それに夫のアブラハムが追随するなどの事件があったその十三年後、神が沈黙を破ってアブラハムに現われ、かねてよりの約束を確認した上で、「私もあなたに対して誠実を尽くす、だからあなたも私に対して誠実であれ」と語りかけ、その際に、名を「アブラム」から「アブラハム」に改めるようにと命じます。
 
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現われて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』。アブラムは、ひれ伏した。神はまた言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたはアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである』」(創世記17章1〜5節 旧約聖書口語訳17p)。
 
 「全き者であれ」(1節)とは「完全無欠であれ」「完璧であれ」ということではなく、「常に誠実であれ」という意味です。
 
 この時、名前の変更が命じられましたが、学者によりますと「アブラム」には「高められた父」、そして「アブラハム」には「多くのものの父」という意味があるとのことです(日本基督教団発行 旧約聖書略解「創世記」34p)。
 
また、ここで神は改めて、アブラハムには多くの子孫が与えられること、神がその子孫の神となること、そして、子孫にはカナンの地が所有地として与えられることを確認すると共に、神との契約のしるしとして、子孫のみならずアブラハムの一族はすべて、割礼を受けるべきことを命じたのでした(17章6〜14節)。
 
神はさらに、彼の妻の名を「サライ」から「サラ」に変更するようにと命じました。
 
「神はまたアブラハムに言われた、『あなたの妻サライは、もはや名をサライとは言わず、名をサラと言いなさい』」(17章15節)。
 
 「サライ」も「サラ」も王女という意味だそうです(いのちのことば社発行 新聖書注解「創世記」161p)。
 
ここまでは神からの有り難い申し出でとして、それらを受け止めていたアブラハムでしたが、しかし、次の言葉が彼を戸惑わせました。神は続けて、「あなたの妻サラは男の子を産む」と断言したのです。
 
「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたに男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」(17章16節)。 
 
 これ程有り難い言葉もありません。しかし、アブラハムの常識はこれを受け入れることが出来ませんでした。彼はひれ伏した状態で、下を向いたまま笑い、そして心の中で呟きます。
 
「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」(17章17節)。
 
 アブラハムは笑ったのです。神の有り難くもまた忝いお言葉を笑ったのでした。そこには「神さま、遅すぎましたよ」という思いもあったかも知れません。
 
「笑った」というと思い出すのが、作家の永井荷風の日記です。一昨日の五月三日は憲法記念日でした。多くの日本人が、まるで天から授かったかのように後生大事にしてきた現行憲法ですが、近年、これが占領下のどさくさに紛れて、進駐軍の素人集団が十日足らずで作って、敗戦国の日本に否応なしに押し付けた即席の占領憲法であることが知られるようになってきました。
 
この憲法が昭和二十一年十一月三日に公布されたその半年後の、二十二年五月三日の憲法施行日の日記、「断腸亭日乗」で永井荷風はこう書きました。
 
「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より實施の由。笑ふ可し」(荷風全集 第二十四巻190p 岩波書店)。
 
 嘲笑です。永井荷風のみならず、新憲法制定の隠された由来を知っている当時の国民にとって、米国の言いなりになるしかなかった日本の国会、政府そして国民が置かれていた状態は、「笑ふ可(べ)し」と言って自嘲するしかない時代だったのでした。
 
 余談ですが、米国によって押し付けれた憲法を、嫌米、反米の左翼政党がなぜ後生大事に護ろうとするのかが不思議だと皮肉る向きも多いのですが、「それは別に不思議ではなく、実はマッカーサーと共に日本に進駐してきたGHQのメンバーの中には、マルクス・レーニン主義の影響を受けていた者たちが多数いて、そこで彼らは自分たちが抱いているイデオロギーを日本の占領政策で実験しようとした、つまり、歴史的流れとしては確かに米国製ではあるが、中身は左翼のイデオロギーの産物、それが『新憲法』であったのだ、だから、マルクス・レーニン主義を基盤とする左翼政党にとり、成立の由来はどうであれ、自分たちの夢を実現してくれているもの、それが現行憲法である、彼らが現憲法に固執する理由はそこにあるのだ」という見方をする人もいるようです。
 
本論に戻りますと、信仰の祖であるアブラハムの笑いの場合は、「そんなことがあるわけがない」という冷笑、皮肉な笑いともいうべきものであって、それは神の言葉とおのれの現実とのギャップを見て笑う、不遜ともいうべき不信の笑いであったのでした。
 
 常識は大事です。通常、理性と経験によって形づくられる常識を無視した信仰は、不幸な狂信、盲信となります。
そして常識人でもあったアブラハムは常識的な判断として、ハガルが産んだイシマエルを神に推薦します。
 
「そしてアブラハムは言った、『どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように』」(17章18節)。
 
 このアブラハムの「笑った」という反応に対して、神は、怒るわけでもなく、ただ彼の常識を否定して、サラが男児を産むことを重ねて明言した上で、イシマエルのことは私に任せよ、と告げます。
 
「神はまた言われた、『いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた』」(17章19、20節前半)。
 
 古来、旧約の神は忍耐心がなく、怒りっぽい神であるという見方がありました。特に、西暦一世紀後半から二世紀にかけて、原始キリスト教会に多大の影響を与えたグノーシス主義という異端の教えは、旧約の神を創造神としつつも、最高神とは別の、次元の低い神と考えました。
 
 けれどもここには「恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊か」(詩篇145篇8節)な神がおられたのでした。そして、その神がアブラハムの神であって、しかも今日、そのアブラハムの神は恐れ多い事に、私たちの「神と呼ばれても、それを恥とはされな」(ヘブル人への手紙11章16節後半)い神なのです。
 
 
2.信仰の祖アブラハムの行動は、神の約束に対す 
  る信仰の応答であった
 
 この時のアブラハムの心中については、物語は沈黙をしています。しかし、十三年ぶりに現われて、そして密かに笑った自分に向かい、怒りもせずに懇ろに語られた神の言葉を胸に深く噛みしめ、その結果、アブラハムは自らの不信を悔い改めて、神が全能の神であることを信じ直したに違いありません。
 
沈黙を破って最初に語られた神の言葉を、少し説明を加えて読んでみたいと思います。
 
「わたしは(有限の存在である人間のあなたとは違って、無限の力を有する)全能の神である。あなたは(ただただ全能であるこの)わたしの前に歩み、全き者であれ」(17章1節)。
 
 常識をめぐっては、「非常識」は排すべきですが、常識を超える「超常識」は大事にしなければなりません。両者を見分けるためには「社会常識」「一般常識(コモンセンス)」を身につけることです。
不思議なことですが社会常識の豊かな人ほど、神の言葉を正しく理解することが容易となるのですが、反面、そうでない人ほど、歪んだ信仰を持つ傾向があるようです。
 
 アブラハムは常識を超える神の自己啓示、「わたしは全能の神である」という言葉に思いを巡らし、そして自らの不信を悔い改めて、神を信じ直したのでした。
 
 それは彼がその後、自らも含めて一族に割礼を施したことで証明されます。神がアブラハムと語り終えて立ち去ったあと、彼は神が契約のしるしとして実行することを命じられた割礼を実施しました。
 
「神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。アブラハムは神が自分に言われたように、この日その子イシマエルと、すべて家に生まれた者およびすべて銀で買い取った者、すなわちアブラハムの家の人々のうち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼を施した」(17章22、23節)。
 
 「割礼」には「切り取る」という意味があるそうです。「割礼」とは具体的には男性器の包皮と呼ばれる部分を切り取る行為であって、古代メソポタミア、エジプトにおいては主に衛生的な観点から広く行われていたものですが、神はこれを神とアブラハム及びアブラハムの子孫との契約のしるしとして、代々にわたって実施することを命じたのでした。
 
「あなたがたのうち、男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう」(17章9節後半〜11節)。
 
 アブラハムが自らも含めて一族の男子に割礼を施したということは、彼が、妻のサラが男の子を産むという神の言葉に対して、行動を以って誠実に応答したことを意味します。
 
 アブラハムに与えられたのは言葉だけでした。何の兆しも徴しもありません。でも、アブラハムは神の言葉は必ず実現すると信じたのでした。
信じたからこそ、一族上げて激しい痛みを伴う割礼という行動に出たのでした。信じなければ決してしない行為です。私たちはこのアブラハムの行動に、彼の信仰の成熟を見るのです。
 
 西暦一世紀の半ばに、アブラハムの子孫でもある使徒パウロがローマの集会に書き送った書簡には、この時のアブラハムの信仰状態がまるで同時代を生きていた者が見ていたかのように、生き生きと描写されています。
 
「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである」(ローマ人への手紙4章19〜22節 新約聖書口語訳238p)。
 
 この場合、割礼はアブラハムが「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(21節)ことを証しする行動だったのでした。
 
 アブラハムはこの信仰のゆえに、今も私たちの信仰の模範なのです。
 
 
3.信仰の祖アブラハムが受けた割礼は、体だけでなく心に施された割礼であった
 
 では、アブラハムの信仰の子孫である者たちはアブラハムに倣って、今も割礼を受けるべきなのでしょうか。
実は紀元一世紀のキリストの教会においても、キリスト信者といえども、神に受け容れられるためには割礼を受けなければならない、と主張する者もいました。
 
そしてこのような主張と真っ向から対峙したのが、生粋のヘブル人であり、アブラハムの子孫であることを誇りとした使徒パウロだったのです。パウロは言います、
 
「割礼はキリストの出現までは、確かに神と神の民との契約のしるしであった、しかし、アブラハムの肉の子孫の役割は終わった、というよりも完了した、だから肉における割礼も必要がなくなった、
なぜならば、神の律法を完全に守り切ることにより神にキリストと認められたイエスを、わが救い主、わが主と信じ告白する者は、アブラハムの血統に連なっていなくても、つまり肉の子孫でなくても、信仰によるアブラハムの子孫とされるからである、大事なのは心に施された割礼なのだ」
 
と。
 
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(ローマ人への手紙2章28、29節 新共同訳)。
 
 神の「霊」、つまり聖霊によって「心に施された割礼」(29節)とは、
謙遜な砕けた心の状態や姿勢を意味します。
それはモーセを通して十戒が与えられた際に、既に言われていたことでした。
 
「それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」(申命記10章16節 旧約261p)。
 
 アブラハム自身、単に外的なしるしとして割礼を受けたわけではありませんでした。彼が割礼を受けたということは、それまでの不従順、不信仰、失敗を悔い改めて、新しく出直す気持ち、決意を示す行動でもあったのでした。
 
彼はこの時、体だけではなく心にも、しかも心の深みにも割礼を施していたのでした。だからこそ、アブラハムは肉の子孫にとっても、霊の子孫にとっても共に信仰の祖なのです。
 こうして信仰の祖アブラハムは、「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認」(ヘブル人への手紙11章1節)しながら、信仰の高嶺、恵みの高嶺を登り続けて行くのでした。
 
二十一世紀を生きる私たちもまた、信仰の祖であるアブラハムの後に続いて、その「世界遺産」ともいうべき信仰の高嶺へと、共に励まし合いながら登っていきたいと思います。


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